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とは、[[パキスタン]]と[[アフガニスタン]]の間にある[[峠]]。古来より文明の交差点として重要な役割を果たし、南アジア世界と中央ユーラシア世界を結ぶ交通の要衝であった。ハイバー峠、カイバー峠などとも表記される。標高は約1070メートル。
 
==概要歴史==
パキスタンの北西端に位置しており、パキスタンの[[ペシャワール]]に近い。インド世界は[[ヒマラヤ山脈]]、[[スレイマン山脈]]、[[大インド砂漠]]([[タール砂漠]])などに囲まれた地域であり、外部からの侵入は容易ではない。そのため、カイバル峠は古代より数少ない侵入路となっていた。カイバル峠を越えるとアフガニスタンの[[ジャラバード]]へと至る。前1500年頃、このカイバル峠を越えて[[アーリヤ人]]が[[パンジャーブ地方]]に侵入した。
 
カイバル峠は、[[シルクロード]]から南下してインドにむかう際の交易路としても重要な役割を果たした。そのため、交易の利権を得ようとする諸勢力がこの地の周辺をめぐって抗争を続けた。インドのイスラーム化もこのルートから侵入した勢力によって進められた。
16世紀前半には、[[ウズベク人]]の侵入を受けて滅亡した[[ティムール朝]]の残党がインドへ侵入し、[[ムガル帝国]]を建国した。
19世紀前半には、アフガニスタンにまで影響力を広げようとしたイギリスが、この地を戦場としてアフガン人と争った(第一次アフガン戦争)。
1880年、第二次アフガン戦争を経てアフガニスタンを事実上の保護国としたイギリスは、この地の交通網を整備した。現在は[[アジアハイウェイ1号線]]の一部となっている。
 
16世紀前半には、[[ウズベク人]]の侵入を受けて滅亡した[[ティムール朝]]の残党がインドへ侵入し、[[ムガル帝国]]を建国した。19世紀前半には、アフガニスタンにまで影響力を広げようとしたイギリスが、この地を戦場としてアフガン人と争った(第一次アフガン戦争)。1880年、第二次アフガン戦争を経てアフガニスタンを事実上の保護国としたイギリスは、この地の交通網を整備した。現在は[[アジアハイウェイ1号線]]の一部となっている。
 
[[Category{{デフォルトソート:峠|かいはる]]}}
[[Category:ヒマラヤ山脈|かいはる]]
[[Category:アフガニスタンの地形|かいはるヒマラヤ山脈]]
[[Category:パキアフガニスタンの地形|かいはる]]
[[Category:パキスタドゥークシュ|かいはるの地形]]
[[Category:ヒンドゥークシュ]]
 
[[ar:ممر خيبر]]