「古典園芸植物」の版間の差分

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しまあじ (会話 | 投稿記録)
{{誰}}が貼られた日時:2009年3月13日08:34(UTC)
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[[イベント]]として花を見ることも盛んに行なわれ、[[徳川吉宗]]は[[1720年]]、[[江戸]]市民の憩いのために[[飛鳥山]]に桜を植栽させたが、このような例は全国各地で見られた。また寺社の境内等ではキク、ボタン等の展示があり、[[堀切菖蒲園]]や[[小高園]](初のハナショウブ園、1856年頃開園)のような、特定の植物を集め植栽して江戸市民の娯楽に供した観光施設も生まれた。[[向島百花園]](1805年開園)や[[亀戸天神]]の[[フジ (植物)|フジ]]、浮間ヶ原のサクラソウなど都市内やその近郊には花の名所も多く存在して行楽の対象となり、四民が身近に花、植物に触れる場所となっていた。
 
植物の流通、交流が多くなる中で、[[経済]]の発展と共に、新花、珍花が高価で取引され、江戸時代全般に亘り投機的側面も強く持つ植物が多かった。古くはキクに始まり、オモト、カラタチバナ、マツバラン、ナンテン、マンリョウ、フクジュソウ等でこのような傾向が非常に強く見られた。このような植物は金を生む樹として「金生樹」と呼ばれるほどであった。カラタチバナ(百両金)、マンリョウ(万両)などの名称にもその名残が残っている。そのため一攫千金を夢見て新花作出のための育種が盛んになり、また各地の山野に珍品が求められた。この点ばかりを江戸時代園芸の特徴として非常に強調する園芸史家もいるが、イギリスや[[オランダ]](特に[[チューリップ・バブル]]が有名)、中国など園芸の発達した国では同様なことがよくあり、また[[美術]]品等でも投機的売買は特別なことではなく、そればかりを強調しすぎるのは問題である{{誰|date=2009年3月}}。
 
他方、[[藩]]によっては藩士の[[情操教育]]や精神修養のために園芸を奨励するところも少なくなく、[[趣味]]、[[癒し]]、芸術的[[精神]]の発露の手段として園芸、育種を行なう個人、[[結社]]も少なくなかった。ハナショウブの父とも讃えられる旗本、[[松平菖翁]](松平左金吾)やサクラソウの「下谷連」などはその例である。このようにして投機とは無関係に育種された植物も少なくない。