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'''テニアン島'''(テニアンとう、
== 歴史 ==
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テニアン島は、かつて[[先住民族]]の[[チャモロ]]人が自給自足の暮らしを送っていた。[[マリアナ諸島]]が西洋人に「発見」されたのは[[1521年]]の[[フェルディナンド・マゼラン|マゼラン]]の世界一周航海の途上であった。この時マゼランは[[グアム島]]に上陸し、[[ロタ島]]を望見したが、テニアン島にはやって来なかった。
140年後の[[1668年]][[6月16日]]、[[カトリック教会|カトリック]][[司祭]]で[[イエズス会]]宣教師[[ディエゴ・ルイス・デ・サンビトレス]]
スペインの支配が確立した後、[[1695年]]にスペインは島民全員を[[グアム島]]に強制移住させ、テニアンは無人島となった。19世紀の中頃からはスペインにより同島は牛や豚の放牧地となったが、後に放棄されテニアンは野生化した家畜のみが住む島と化してしまった。
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[[第一次世界大戦]]でのドイツ敗北を契機に支配権は[[日本]]に移動した。[[1920年]]([[大正]]9年)には、[[国際連盟]]より正式に日本の[[委任統治|委任統治領]]となる。
日本の統治となりテニアンで初めて本格的な開発が行われ、[[1916年]](大正5年
その後[[1918年]](大正7年)[[2月22日]]に[[山形県]]出身の日本人約100名とサイパン、ロタの両島民約300人がテニアンに移住した。彼らはまず海岸沿いのソンソン地区から内陸のマルポ地区までの間の森林を伐採し連絡道を開通させ、その後森林を開墾し椰子栽培を開始した。しかし、会社の指導法や待遇に不満を持った移民たちは、1918年(大正7年)末にストライキを起こした。結果、ストライキは成功したものの、この時までに30名余りの日本人が島を離れていった。
一方、椰子栽培の方は10万個のうち6万7、8千個を植え付けることに成功したが、[[1919年]](大正8年)の初め頃に害虫([[イセリヤカイガラムシ]])が大発生し、さらに
だが、[[1926年]](大正15年)に新たにテニアンの開発を請け負った[[南洋興発]]は[[沖縄県|沖縄]]や[[福島県|福島]]、[[山形県|山形]]などから移民を集め、椰子に代わって[[砂糖]]や[[コーヒー]]、[[綿花]]の生産を開始させた。その結果、昭和初期にはテニアンの砂糖の生産量は[[台湾]]に次いで東洋第二位の生産量となるまでになった。その他にも同島では鰹漁が盛んとなり、島内には[[鰹節]]工場もあった。
[[1944年]](
=== 太平洋戦争(大東亜戦争) ===
[[太平洋戦争]]([[大東亜戦争]])中は島北部に当時、[[南洋諸島]]で一番大きい飛行場である[[ハゴイ飛行場]]があったことから日本軍の重要な基地となり、軍人の駐屯は陸海軍合わせて約
米軍はテニアンの戦略的価値の高さに注目し、1944年(昭和19年
1944年(昭和19年)11月以降、連日のように日本に向かう [[B-29_(航空機)|B-29]] がこの島を離陸していった。[[1945年]](昭和20年)[[8月6日]]の[[広島市|広島]]、[[8月9日]]の[[長崎市|長崎]]への[[原子爆弾|原爆]]投下作戦の B-29 もここから発進した。
=== 戦後 ===
[[1947年]]にマリアナ諸島はアメリカの[[信託統治領]]となった後、[[1948年]]にサイパン島やロタ島、[[ヤップ島]]より[[チャモロ]]人や[[カロリニアン]]約400人が再び移住した<ref>その大部分がヤップ島から移住した人達で、ヤップ島から移住したチャモロ人は18世紀にグアム島からヤップ島に移住した者の子孫である。</ref>。[[1950年代]]に現在のテニアンの中心地であるサン・ホセを建設した。
[[1986年]]より[[コモンウェルス (米国自治連邦区)|コモンウェルス]]である[[北マリアナ諸島]]の一員となった。現在の人口は約
[[Image:PAP 0233.JPG|thumb|240px|テニアン空港へ乗り入れるチェロキー機]]
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== 交通 ==
日本からの直行便はなく、すべてサイパンでの乗り継ぎとなる。
サイパン・テニアン間の航空便は[[フリーダムエアー]]社
また、サイパン港
観光客は、オプショナルツアーで気楽に行くことができる。
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