「勿来関」の版間の差分

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=== 文学作品による推定 ===
11世紀に『[[平中物語]]』の一節を引いて[[能因]]が[[遠江国]]([[静岡県]]西部)に所在すると考えた『[[能因歌枕]]』の説のほか、17世紀に[[西山宗因]]が[[紀行文]]『[[宗因奥州紀行巻]]』のなかで「なこその関を越て」[[磐城平藩]]領に入っていると記していることなどから、現在の[[福島県]][[いわき市]]に長らく比定されている。[[吉田松陰]]の『東北遊日記抄』にも現いわき市[[勿来|勿来町]][[関田村|関田]][[小字|字]]関山付近を「勿来故関」と記録されている。ただし、「なこそ」の地名がこの周辺に存在した証はない。現在の[[東日本旅客鉄道|JR]][[常磐線]]「[[勿来駅]]」が{{jdate|1897}}に開設され、その駅名にならって[[石城郡]][[窪田村]]が{{jdate|1925|5|1}}に[[町村制|町制]]施行する際に「勿来町」と改称したことが地名としての始まりである
 
福島県いわき市勿来町に所在したと考えられている[[菊多関]]の別名とする説もあるが、最近では区別されている。
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== 観光地 ==
江戸時代初期に現在の福島県いわき市[[勿来|勿来町]][[関田村|関田]][[小字|字]]関山に「なこその関」を見立てるようになったため、[[観光地]]化した<ref>[http://www.iwakicity-park.or.jp/bungakurekishikan/index.php 企画展「勿来関を訪れた人々」 のご案内](いわき市勿来関文学歴史館)</ref>。江戸時代に同地関田村を領していた[[磐城平藩]]は、[[17世紀]]に[[桜]]の植樹をするなど、関跡に見立てた整備事業をたびたび行っている。{{jdate|1925}}に勿来町が成立すると、{{jdate|1927}}に[[福島民友新聞社]]が「勿来関趾」の碑を建立した({{ウィキ座標|36|52|6.3|N|140|46|51.8|E|region:JP|地図|name=福島県いわき市:「勿来関趾」の碑(1927年(昭和2年)に建立)}})
 
{{jdate|1889|4|1}}、旧磐城平藩の関田村、および、旧[[棚倉藩]]の窪田村・四沢村・白米村・九面村・酒井村・大高村が合併して窪田村となった。{{jdate|1897|2|25}}に[[日本鉄道]]海岸線(現・[[東日本旅客鉄道|JR]][[常磐線]])に「[[勿来駅]]」が開設されると、その駅名にならって{{jdate|1925|5|1}}には[[石城郡]]窪田村が[[町村制|町制]]を施行する際に改称して勿来町になり、「勿来」という[[地名]]が初めて生まれた。{{jdate|1927}}には[[福島民友新聞社]]が「勿来関趾」の碑を建立した({{ウィキ座標|36|52|6.3|N|140|46|51.8|E|region:JP|地図|name=福島県いわき市:「勿来関趾」の碑(1927年(昭和2年)に建立)}})。
 
=== 勿来の関公園 ===