勿来関

古代から歌枕となっている関所の1つ

勿来関(なこそのせき)は、古代から歌枕となっている関所の1つ。江戸時代の終わり頃からは「奥州三関」の1つに数えられている[1]。所在地が諸説ある上、その存在自体を疑う説[† 1] もある。

全ての座標を示した地図 - OSM
全座標を出力 - KML
歌川国芳画『関屋 源義家朝臣』(『武勇擬源氏』のうち)。源義家が勿来関を訪れた際に詠んだ歌「ふくかせを なこそのせきと おもへとも みちもせにちる やまさくらかな」を描く。

以下、福島県の観光地「勿来の関」と区別するため、および、漢字表記にゆれがあるため、本論の関を「なこその関」と記す。

「なこそ」 編集

語意 編集

「なこそ」とは、古語における「禁止」の意味の両面接辞『な~そ』に、『来(く)』(カ行変格活用)の未然形「来(こ)」が挟まれた「な来そ」に由来する[† 2]。現代語では「来るな」という意味。

漢字表記 編集

「なこそ」の漢字表記では、万葉仮名あるいは平仮名の真名を用いて「名古曾」「名古曽」「奈古曽」と書かれる例と、訓であてて「名社」と書かれる例がある。また、漢文において「禁止」の意味で用いられる返読文字「勿」(~なかレ)を用いて「勿来」と書き、語釈から「なこそ」と読み下す例がある。関の名称であることから「来」に「越」の字を当てて「勿越」「莫越」と書く例も見られる(「莫」は「勿」と同様に禁止の意味の返読文字)。

編集

「なこその関」は関とよぶも関所とはよばない。また、目下のところ、和歌など文学作品以外の古代の史料に「なこその関」を見出すことすらできていない。

一般に「なこその関」は、白河関念種関(『吾妻鏡』の表記。江戸時代以降は鼠ヶ関、ほかに念珠ヶ関とも)とともに「奥州三関」に数えられている。「奥州三関」は、「奥州三古関」「奥羽三古関」「奥羽三関」とも呼ばれる[† 3]。しかし、「奥州三関」がなこそ・白河・念種の三関を指していたのかの確証はない[† 4][† 5]

奈良時代蝦夷の南下を防ぐ目的で設置されたとする説については、「なこそ」が来るなという意味であると考えられることからの付会、あるいは、他の関が軍事的に活用された事例の援用あるいは敷衍だと察せられるが、今のところそれを積極的、直截的に示す根拠は見当たらない。

所在地 編集

福島市飯坂町道城町と考えられる  編集

考古学による推定 編集

現在、考古学的な発掘調査を根拠とした所在地の推定はなされていない。

六国史

承和二年十二月三日 [三代格一八] 835年

太政官符

 応長門国関過白河菊多両剗

右得陸奥国解称、檢旧記、置剗以来、于今四百余歳矣、

越度、重以決罸、謹檢格律、無件剗、然則雖犯不輙勘

而此国俘囚多数、出入任意、若不勘過、何用為固、加以進官雑物触色有数、

商旅之輩竊買将去、望請、勘過之事、一同長門

謹請官裁者、権中納言従三位兼行左兵衛督藤原朝臣良房宣、

勅、依請、

承和二年十二月三日


「応下准二長門国関一勘中過白河菊多両剗上事

右得陸奥国解称、檢旧記、置剗以来、于今四百余歳矣、」

陸奥国の解によれば、白河菊多両剗が置かれて835年から400年経たという。しかし謹んで格律を検査したが件の剗は見られない。然らばすなわち、犯す所あると雖も すなわち両関とは考えべからず。

しかして、この国の俘囚の数は多く、出入りを意に任せ、もし関門で取り調べしないなら、何のため関門を固めるのか、加えもって、官を進め、調庸のほかに貢納する交易雑物・中男作物などが色事に触れるものも数ある、

商旅之輩が秘かに色を買い去る、請い望む 関門の取り調べは長門関と同じにする 

謹んで官裁を請うといえり、権中納言従三位兼行左兵衛督藤原朝臣良房宣、請いにより、勅を承った

白河、菊田両関に関する格律が見られない事から両関は存在しなかったと考えられる。

しかし、俘囚が意のままに出入りし、商人や旅人で色事に触れる者が、秘かに色を買いに来る。関門の取り調べを長門関と同様に強化してください。

 この関門は 放蕩の輩が情に任せ歓楽地へ往還を抑制する関門であるから勿来の関という歌枕になったと考えられる。

承和二年十二月四日[続後紀・類史一九〇]  835年

夷俘出境、禁制已久、而頃年任意、入京有徒、仍下官符

責陸奥出羽按察使幷国司鎮守府等

【譴】責がめる。とがめ。「譴責・天譴」


承和四年四月十六日 [紀略] 837年

 陸奥国言、玉作塞温泉石神雷響震動、晝夜不止、温泉流河、其色如漿。

加以山焼谷塞。石崩折木、更作新沼、沸聲如雷。仍仰国司、鎮謝灾異

承和四年四月廿一日【続日本後紀】837年

陸奥出羽按察使従四位下 坂上大宿禰浄野馳傳奏言、得鎮守将軍匝瑳宿禰末守牒偁、

去年春、至今年春、百姓妖言、騒擾不止、奥邑之民、去居逃出、

事須添、戍兵、静騒赴上レ農、又栗原、加美両郡百姓逃出者多、不抑留者、

臣浄野商量、防禍静騒、須未然、加以栗原、桃生以北俘囚、控弦巨多、

皇化、反覆不定、四五月所謂馬肥虜驕之時也、儻有非常、難支禦

伏望差發援兵一千人、四五月間、結般上下、暫候事變、其粮料者、用當處穀

例支給、但上奏待報、恐失機事、仍且發且奏、(日本紀略)

陸奧国衙の所在地すなわち国府は信夫郡に存在した。信夫郡を割き伊達郡が置き国府を護る緩衝郡であった。

苅田以北の麁蝦夷の末裔の侵入を防ぐと同時に、放蕩の輩が禁制をやぶり鯖湖の湯へ遊びに行くのを防ぐ関門であった。それ故、勿来の関や、衣川(現摺上川)の辺にあったため衣川関という歌枕となった。下紐の関も同じ関であったと考えられる。(男女のなかも下紐で隔てられている)

信夫郡と信夫以北の伊達郡を結ぶ橋は十綱橋以外は懸けられていなかった。国府と苅田以北の麁蝦夷地境の要衝であった。

伊達郡の北端と南端部にある飯坂という地名は夷伊境(いいざかい)が語源と考えられる。(福島市飯坂町、伊達郡川俣町飯坂)

文学作品による推定 編集

①     陸奥の 信夫の里に やすらひで 勿来の関を 越えへぞわずらふ 新勅撰和歌集 西行

②    あぶくまを いづれと人に とひつれば 勿来の関の あなたなりけり 夫木和歌集 詠み人知れず

 この二首から勿来の関は信夫の里と「あぶくま」の近くに存在したと考えられる。

③    陸奥の さはこの御湯に 仮寝して 明日は勿来の関を越えてん   西行

「さはこ」は福島市飯坂町鯖湖であり、信夫郡である。


11世紀に『平中物語』の一節を引いて能因遠江国静岡県西部)に所在すると考えた『能因歌枕』の説のほか、17世紀に西山宗因紀行文宗因奥州紀行巻』のなかで「なこその関を越て」磐城平藩領に入っていると記していることなどから、現在の福島県いわき市に長らく比定されている。吉田松陰の『東北遊日記抄』にも現いわき市勿来町関田関山付近を「勿来故関」と記録されている。ただし、「なこそ」の地名がこの周辺に存在した証はない。

福島県いわき市勿来町に所在したと考えられている菊多関の別名とする説もあるが、最近では区別されている。

歌枕であるなこその関は多くの歌人に詠まれているが、それらの歌からは陸奥国(東北地方太平洋沿岸部)の海に程近い山の上の情景がイメージされる。しかし、一般に近代写実主義に拘束されていない近代以前の和歌においては、歌枕を詠むにあたってその地に臨む必要はない。なこその関を詠んだ歌についてもその多くは現地で詠んだ歌とは考えられていない[† 6]

なお、平安海進により、古代の海岸線の位置は現在と異なる。

その他の推定 編集

陸奧国府を多賀城とする説は江戸時代に作られた説で虚構である。

(弘仁六年太政官符より抜粋)

一分配番上兵士一千五百人 兵士一千人 健士五百人

胆沢城七百人 兵士四百人 健士三百人

玉造塞三百人 兵士百人 健士二百人

多賀城五百人 並 兵士

右城塞等、四道集衢、制敵唯領、儻充臣所一レ議、伏望、依件分配、

以前奉勅、陸奥国司奏状如前、具任請、逾勤兵権

簡略

  弘仁六年八月廿三日

多賀城は陸奧国城塞の一つであることが明記されている。東鑑文治五年八月の条は多賀国府の存在を記すことから、この条は虚構と考えられる。

 
宮城県利府町の名古曽にある「勿来神社」の碑および鞘堂(2010年8月)

歌枕 編集

平安時代から近代前までに125ほどの短歌形式の和歌に詠みこまれている。

観光地 編集

 
勿来の関公園吹風殿

江戸時代初期に現在の福島県いわき市勿来町関田関山に「なこその関」を見立てるようになったため、観光地化した[2]。江戸時代に関田村を領していた磐城平藩は、17世紀の植樹をするなど、関跡に見立てた整備事業をたびたび行っている。

1889年明治22年)4月1日、旧磐城平藩の関田村、および、旧棚倉藩の窪田村・四沢村・白米村・九面村・酒井村・大高村が合併して窪田村となった。1897年(明治30年)2月25日日本鉄道海岸線(現・JR常磐線)に「勿来駅」が開設されると、その駅名にならって1925年大正14年)5月1日には石城郡窪田村が町制を施行する際に改称して勿来町になり、「勿来」という地名が初めて生まれた。1927年昭和2年)には福島民友新聞社が「勿来関趾」の碑を建立した(北緯36度52分6.3秒 東経140度46分51.8秒 / 北緯36.868417度 東経140.781056度 / 36.868417; 140.781056 (福島県いわき市:「勿来関趾」の碑(1927年(昭和2年)に建立)))。

勿来の関公園 編集

  • 1951年昭和26年):福島県立自然公園としての指定。
  • 1960年(昭和35年):風致公園として都市計画決定がなされる。
  • 1986年(昭和61年):1988年(昭和63年)、遊歩道、詩歌の小径、駐車場等の整備が行われる。
  • 1988年(昭和63年):いわき市勿来関文学歴史館(観光施設)が開館。
  • 2001年平成13年):いわき市勿来関文学歴史館(観光施設)が供用再開。はじめて学芸員を配置し小規模な企画展を開催。歌枕「なこその関」を紹介。
  • 2007年(平成19年):いわき市勿来の関公園吹風殿(公園施設)が開館。平安貴族の邸宅風の建物と庭園。休憩所やイベント会場として多目的に活用される。

現在は桜の名所としても知られる。また、古賀春一(勿来砿を主力とした大日本炭砿会社の創立者)の彰徳碑がある。

脚注 編集

注釈 編集

  1. ^ 律令体制を補完する(きゃく)や(りつ)そのものにも、『六国史』にも、規定も名称も見えないことから、存在を疑う余地もある。
  2. ^ 「な越そ」が由来とする文書も見られるが、「越ゆ」は下二段活用であるため「な越えそ」となるのが古語の文法上は正しい。そのため、「な越そ」は文法にとらわれない当て字と考えられる。
  3. ^ 「奥州」が、陸奥国のみならず、出羽国を含む「奥羽」と同義で用いられることがしばしば見られる。
  4. ^ 松尾芭蕉は、『奥の細道』のなかで、白河関をさして三関の一としているが、他の二関を明らかにしていない。
  5. ^ 『磐城史料』は、勿来関を「奥州三関」に数えているが、他の二関を明らかにしていない。
  6. ^ なこその関で詠んだとされる詞書をもつ歌には、源義家の「ふくかぜを なこそのせきと おもへとも みちもせにちる やまざくらかな」がある。その死後80年ほど後に添えられた『月詣和歌集』の詞書と、それを基礎に編集された『千載和歌集』の詞書には「みちのくににまかりけるときなこそのせきにてはなのちりければよめる」とある。源義家が陸奥に赴いたのは生涯において3度ある。1度目は1056年天喜4年)8月から翌年11月までの期間に前九年合戦に際して、2度目は1070年延久2年)8月の下野在任中に陸奥国への援軍として、3度目は1083年永保3年)9月に自身が陸奥守鎮守府将軍として、である。いずれも季節的に桜が散る時期に合致するものはなく、詞書と歌の内容との間に齟齬があって、どこまでを事実として整理できるか見極めが難しい。ただし、この詞書が、なこその関の実在を示す根拠の一つではあることに違いはない。

出典 編集

  1. ^ 『磐城史料』
  2. ^ 企画展「勿来関を訪れた人々」 のご案内(いわき市勿来関文学歴史館)

参考文献 編集

  • 清少納言『枕草子』107段
  • 根岸鎮衛『耳袋』巻之十
  • 古川古松軒『東遊雑記』
  • 朴翁『ひたち帯』
  • 雨宮端亭『美ち艸』
  • 葛山為篤『磐城風土記』
  • 大須賀筠軒『磐城史料』

関連項目 編集

外部リンク 編集