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脚注に注釈の節。cite news。リンク切れ。
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}}
'''菅 直人'''<ref group="注">菅 直人の「直」の字は本当は2画目がやや斜めなのが正しい。</ref>(かん なおと、[[1946年]]([[昭和]]21年)[[10月10日]] - )は[[日本]]の[[学生運動|学生運動家]]、[[弁理士]]、[[政治家]]。第94代[[内閣総理大臣]]、[[衆議院議員]](10期)、[[民主党代表]](第8代)。
 
閣僚としては[[厚生大臣]]([[第1次橋本内閣|第85代]])、[[財務大臣]]([[鳩山由紀夫内閣|第13代]])、[[内閣府特命担当大臣]]([[科学技術政策担当大臣|科学技術政策担当]]、[[経済財政政策担当大臣|経済財政政策担当]])、党職としては[[社会民主連合]]副代表、[[新党さきがけ]]副代表、[[民主党代表]](初代・第3代)などを歴任した。
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=== 政界入り ===
[[市川房枝]]の選挙事務所代表を務め、選挙参謀として尽力したことが政界入りのきっかけとなった<ref group="注">作家の[[有吉佐和子]]は1974年の参院選の際に市川を応援するために選挙事務所に入って小説『[[複合汚染]]』にその模様を記し、菅も実名で登場している。有吉は菅が自分を市川の代わりとして勝手に候補者にかつぎあげようとも考えていたと聞いてゾッとし、「ハンサムだけど嫌われなければならない」と思いつめてことさらにガミガミ怒鳴りつけたと記している。</ref>。その後、[[1976年]]の[[第34回衆議院議員総選挙|第34回衆院選]]に[[東京都第7区 (中選挙区)|東京都第7区]](当時)から無所属で立候補し落選したが、こうした活動が[[江田三郎]]の目に止まり、誘われる形で[[社会民主連合|社会市民連合]]に参加した。
 
[[1977年]]の[[第11回参議院議員通常選挙|第11回参院選]]では社会市民連合から出馬したがまたも落選し、[[1979年]]の[[第35回衆議院議員総選挙|第35回衆院選]]では社会市民連合から名称を変更した[[社会民主連合]]から出馬し、またも落選したが、[[1980年]]の[[第36回衆議院議員総選挙|第36回衆院選]]で初当選。<!--[[土地]]問題や税制などを中心に、政府を鋭く追及する[[市民派]]の論客として知られるようになっていった{{要出典}}-->
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|isbn = 4620310190
}}</ref>。
[[1996年]]、[[安部英]]は、[[参考人]]として[[国会]]に招致された。ただし、[[安部英]]被告(元[[帝京大学]]医学部教授)は[[無罪]]となった。<ref>『[[安部英]]医師「[[薬害エイズ]]」事件の真実 誤った責任追及の構図』([[武藤春光]]・[[弘中淳一郎]]編著)http)</ref><ref>{{Cite web|date=2010-09-13|url=http://tsiparehtonpyh.cocolog-nifty.com/blog/2010/09/post-f299.html|title=『安部英医師「薬害エイズ」事件の真実 誤った責任追及の構図』(武藤春光・弘中淳一郎編著)|publisher=木の実町より発信|accessdate=2011-03-17}}</ref>
 
===== 不法投棄問題 =====
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{{see also|O157|風評被害}}
[[1996年]]8月の[[O157]]騒動の時には、「大阪府内の業者が出荷した[[ダイコン#カイワレ|カイワレ大根]]が原因となった可能性は否定できない」と発表。その直後からカイワレ大根への[[風評被害]]が発生し、結果[[倒産]]・[[破産]]するカイワレ農家や業者(その大半が[[個人事業主|自営業者]]や[[中小企業|零細企業]]であった)が続出、[[自殺]]者まで出る事態となった。しかし、立入検査においては施設、従業員および周辺環境からはO157は検出されなかった<ref>厚生労働省報道発表資料【堺市学童集団下痢症の原因究明ー概要】[http://www1.mhlw.go.jp/houdou/0809/0926-4.html]</ref><ref>厚生労働省報道発表資料【堺市学童集団下痢症の原因究明ー調査結果まとめ】1[http://www1.mhlw.go.jp/houdou/0809/0926-1.html]</ref><ref>厚生労働省報道発表資料【堺市学童集団下痢症の原因究明ー調査結果まとめ】2[http://www1.mhlw.go.jp/houdou/0809/0926-2.html]</ref><ref>厚生労働省報道発表資料【堺市学童集団下痢症の原因究明ー調査結果まとめ】3[http://www1.mhlw.go.jp/houdou/0809/0926-3.html]</ref>。
これらの経緯を受け、菅は記者会見の場でカイワレのサラダを食べることで、安全性のアピールを図った<ref group="注">ただしこの種のパフォーマンスとしては最初ではなく、[[水俣病]]問題で[[三木武夫]]が魚を食べるパフォーマンスをした例がある。</ref>。一方で「O157以外の通常自然界に存在するはずの細菌も一切検出されなかったのだから、事件後消毒されたことは明白で証拠隠滅が図られた」などと主張した。この問題については、東京と大阪で風評被害を受けたカイワレ大根生産業者らが起こした国家賠償を求める民事裁判では、最高裁で平成15年5月21日に国側敗訴が確定している<ref>裁判所判例検索システム 該当裁判の判決文[http://www.courts.go.jp/hanrei/pdf/771FD6F00CA079F549256D5100317F32.pdf]</ref><ref group="注">
[[堺市]]のO157感染とカイワレとの因果関係が争われた裁判における、大阪地方裁判所と大阪[[高等裁判所]]による判決の要旨は以下の通り。
* 2002年3月15日 大阪地方裁判所 平成9年(ワ)第2222号 損害賠償請求事件
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=== 鳩山由紀夫内閣 ===
2009年9月16日、[[鳩山由紀夫内閣]]発足により、[[内閣府特命担当大臣]]([[経済財政政策担当大臣|経済財政政策]]・[[総合科学技術会議|科学技術政策]]担当)に就任した。あわせて、国務大臣として「税財政の骨格や経済運営の基本方針等について企画立案及び行政各部の所管する事務の調整」も担当することになった。[[内閣法]]第9条に基づく内閣総理大臣臨時代理の指定順位は第1位となり、いわゆる「[[副総理]]」格としての入閣となった。ポスト鳩山の呼び声もあったが、国家戦略局設置のための法案の年内での国会提出が見送られ、その前身となる国家戦略室もうまく稼動していないとされ<ref>[http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/091202/plc0912021936008-n1.htm 「国家戦略になっていない」 鳩山首相が戦略室の“機能不全”認める(産経、09.12.2)]{{リンク切れ}}</ref>、当初、国家戦略相として予算編成の「司令塔」を期待されながら、その役割を果たせていないとも評された。一方で、政府の新成長戦略策定ではこれを主導する役割を果たした<ref>東京新聞{{cite 2009年12月31日『news |title=&lt;スコープ&gt;菅氏ようやく主導権 予算編成は出番なく |author= |newspaper=東京新聞 |date=2009-12-31 |url= |accessdate=}} </ref>。
 
[[2010年]][[1月7日]]、[[財務大臣]]の[[藤井裕久]]の体調不良による辞任に伴い、後任の財務大臣に横滑りの形で就任した([[内閣府特命担当大臣]](経済財政政策担当)は引き続き続投)。<!--なお、これまで務めていた職務のうち、「税財政の骨格や経済運営の基本方針等について企画立案及び行政各部の所管する事務の調整」に関する職務は内閣府特命担当大臣(行政刷新担当)の[[仙谷由人]]が、内閣府特命担当大臣(科学技術政策担当)は[[文部科学大臣]]の[[川端達夫]]がそれぞれ兼務する形で引き継がれた。-->財務大臣就任会見で、「90円台半ばあたりが適切」と具体的な為替水準にまで言及する円安誘導発言を行い話題を呼んだほか、財務大臣として日銀に対しより一層の金融緩和を進めるよう働きかけた。一方で、国会質疑の場で乗数効果、消費性向などについての質問を受けると答に窮し、質疑を止めて[[官僚]]を呼ぶ<ref>[http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/sangiin/174/0014/17401260014001a.html 第174国会、参議院予算委員会-1号 平成22年01月26日 議事録]</ref>など財政政策に対する理解の浅さを指摘された場面もあった。鳩山内閣の支持率が低下する中、菅は各種世論調査で「次期首相にふさわしい人物」の上位に位置する<ref>{{Cite news
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2010年6月の民主党代表選挙において菅が出馬表明すると小沢一郎の党運営に不満を持っていた[[枝野幸男]]、[[仙谷由人]]らが菅の支持に回った。これに対し[[小沢グループ]]は菅の対抗馬の擁立を模索し、[[樽床伸二]]が名乗りを挙げた。選挙の結果、樽床を破った菅は、反小沢の急先鋒ともいわれた枝野、仙谷をそれぞれ党幹事長、官房長官に起用し、小沢の意向により廃止された[[政策部会|政策調査会]]を復活させた。また小沢、鳩山代表時代に作成されたマニフェストの一部修正にも取り掛かった。こうして政権交代の原動力とも言われたトロイカ体制は崩壊し、マスコミなどから'''"脱小沢"'''とも称される路線に傾いていくこととなる。こうした動きを世論はおおむね評価し、内閣支持率は60%前後という高水準で内閣は出発した。
 
しかし、2010年7月11日投開票の[[第22回参議院議員通常選挙]]では菅の[[消費税]]をめぐる発言の迷走などがひびき、獲得議席は現有の54議席を大きく下回る44議席にとどまった。この結果、参議院で過半数を失うねじれ状態にとなり、菅の党内における求心力は低下した。9月に行われる党代表選に向け、菅は再選に意欲をみせるが、とくに小沢に近い議員グループを中心に党執行部の参院選敗退の責任を問う声が強まり、小沢を擁立する動きも加速した。こうして現職の総理と党内最大派閥の領袖の全面対決の構図となり、党分裂も懸念される事態となる中、前首相の鳩山由紀夫が菅、小沢両者の仲介に乗り出した。鳩山は菅に小沢の出馬見送りと引き換えに枝野幹事長、仙谷官房長官の更迭や小沢の要職での起用、トロイカ体制に輿石参院会長を加えた「トロイカ+1」体制の構築などを菅に要請<ref>日本経済新聞(2010年8月27日)</ref>。告示直前まで両者の調整が行われたが、菅は密室談合となるのを懸念し両者折り合わず、最後に菅-小沢会談が行われたが、結局物別れに終わった<ref name=troika/>。鳩山はこれまでの菅続投支持から一転、小沢支持を表明。これを受け小沢は告示日である[[9月1日]]に出馬表明し、代表選での菅との直接対決に突入した。
 
この代表選において両陣営の激しい多数派工作が行われ、立会演説会における[[動員]]が指摘される<ref name= mobilization>{{Cite news|url=http://hochi.yomiuri.co.jp/topics/news/20100905-OHT1T00048.htm|title=菅首相に「辞めろ」「出直せ」街頭演説で痛烈ヤジ…民主代表選|newspaper=スポーツ報知|date=2010-09-05 |accessdate=2010-09-08}}</ref>など激しい選挙戦となった。政策面では金銭問題が取りざたされる小沢を意識し、菅はクリーンでオープンな党運営や雇用政策の重視を主張し、一方の小沢は衆議院総選挙での2009マニフェストの順守、地方への紐付き[[補助金]]の一括廃止、早期の消費税率アップの反対など主張した<ref>{{Cite news
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}}</ref>。また、2010年の参議院議員選挙の直前には[[自由民主党]]の案を参考にして[[消費税]]増税(およびそれを財源にした[[法人税]]減税)を含む税制改革に取り組むことを主張したため、中小企業や自営業者を切り捨てるものであるという批判が出た<ref>斎藤貴男『消費税のカラクリ』講談社現代新書</ref>。
* 長崎県[[諫早湾]]干拓事業に対して、自然環境保全の観点から反対を表明していた。そして1997年4月、水門が閉められる正にその時間に現地事業事務所を訪問し、テレビカメラの前で「誰の指示でやっているのか。責任者を出せ」と述べた。
* 首相の在任期間について「首相というのは少なくとも4年間は同じ人物が続けるべきだ。常々、鳩山首相にも言っている」<ref>[http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/100412/plc1004121727008-n1.htm 菅氏「鳩山首相は4年続けるべき」] {{リンク切れ}}MSN産経ニュース 2010年4月12日</ref>と述べた。一方、参院選で自民党が大敗し、[[ねじれ国会]]となった際には「安倍首相が総理の座にいるかぎり国民が納得できる政治はできない」<ref>[http://www.dpj.or.jp/news/?num=10441 赤城農水相辞任「遅きに失した」。改めて政治資金規正法改正目指す 菅代行] 民主党ニュース 2007年8月1日</ref>などと早急に辞任や解散をすべきと発言している。
* 1999年7月衆院本会議、所属する[[民主党 (日本 1998-)|民主党]]の党議拘束が外された[[国旗及び国歌に関する法律|国旗国歌法]]案の議決の際、民主党の一部議員や[[日本共産党|共産党]]、[[社会民主党 (日本 1996-)|社民党]]と同じく、法案に反対した。また[[鳩山由紀夫内閣]]発足後初の閣僚記者会見では、他の一部閣僚と同様、登壇・降壇時共に会見場に掲揚された国旗に礼をしなかった。こういった経緯もあり、[[保守]]系勢力からの批判が多い。なお、首相就任後に行われた[[2010年]]([[平成]]22年)[[6月14日]]の衆議院本会議での代表質問に対する答弁では「今は常に[[国旗]]があるところではきちんと敬意を表し、[[君が代|国歌斉唱]]もしている」と述べている<ref>{{cite news
| url = http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/100614/plc1006141601010-n1.htm
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===== 「もう沖縄は独立した方がいい」発言及び国防政策 =====
菅直人首相が副総理・国家戦略担当相だった2009年9月の政権交代直後、[[民主党]]の[[参院議員]]である[[喜納昌吉]](党沖縄県連代表)に対し、「基地問題はどうにもならない。もうタッチしたくない」「[[沖縄県|沖縄]]問題は重くてどうしようもない。もう沖縄は独立した方がいいよ」などと語っていたことが2010年6月15日に判明した。
<ref>[http://www.nikkei.com/news/category/article/g=96958A9C93819481E3E4E2E2968DE3E4E2E4E0E2E3E2E2E2E2E2E2E2;at=ALL 「基地問題どうにもならぬ」 首相、昨年もらす]{{リンク切れ}} (日本経済新聞)</ref><ref>http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/100615/plc1006152358024-n1.htm {{リンク切れ}}
</ref>。
* 2010年8月19日、自衛隊制服組との意見交換会において「改めて法律を調べてみたら『総理大臣は、自衛隊の最高の指揮監督権を有する』と規定されており、そういう自覚を持って、皆さん方のご意見を拝聴し、役目を担っていきたい」と発言した。またこの意見交換会の前に、北沢防衛大臣に対して「ちょっと昨日予習をしたら、(防衛)大臣は自衛官じゃないんですよ」と発言した。いずれも安全保障に関する重大な認識不足と受け取られかねない発言である。<ref> [http://www.asahi.com/politics/update/0819/TKY201008190397.html 菅首相知らなかった?「大臣は自衛官じゃないんですよ」]{{リンク切れ}}(朝日新聞)</ref>
 
===== 硫黄島遺骨収集視察 =====
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===== 原子力発電の専門家 =====
'''「僕はものすごく原子力に詳しいんだ」'''と堂々と発言するなど、原子力の専門家を自任している。その知識は、東京電力に「危機感が非常に薄い」と指摘するほどである。<ref>[http://www.jiji.com/jc/c?g=pol_30&k=2011031601176{{cite news |title=「最悪なら東日本つぶれる」=専門家自任、笹森氏に明かす-菅首相] |author= |newspaper=時事通信 |date=2011-03-16 |url=http://www.jiji.com/jc/c?g=pol_30&k=2011031601176 |accessdate=}}</ref>
 
=== 女性スキャンダル ===
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==== 韓国人女性との不倫・隠し子騒動 ====
[[週刊文春]]2010/6/24号に「菅直人「オンナ」の噂を追う」として韓国人ホステスとの間に隠し子がいるとの記事が掲載された。情報の真偽の程は不明であるが、韓国人ホステスは実は国家情報院に通じている(スパイの疑いあり)ともされ、[[自由民主党 (日本)|自民党]]は調査に乗り出した、と報道している。同様の報道はシンガポールの「星洲日報」や台湾の新聞ネット版「自由電子報」香港の「shina.com.hk」でもニュースとして報道されている。
<ref>[{{cite news |title=日本‧菅直人被爆有私生子‧自民黨派人赴韓挖料 |author= |newspaper=星洲日報|language=中国語 |date=2010-06-19 |url=http://www.sinchew.com.my/node/165120?tid=2] |accessdate=}}</ref>
<ref>[{{cite news |title=日新首相染醜聞 被爆與酒店小姐有私生子 |author= |newspaper=自由電子報|language=中国語 |date=2010-06-18 |url=http://iservice.libertytimes.com.tw/liveNews/news.php?no=377588&type=%E5%9C%8B%E9%9A%9B] |accessdate=}}</ref>
<ref>[http://iservice.libertytimes.com.tw/liveNews/news.php?no=377588&type=%E5%9C%8B%E9%9A%9B]</ref>。
 
=== その他 ===
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| date = 2010-09-01
| accessdate = 2010-09-20
}}</ref>(野党時代、[[小沢一郎]]と囲碁で交流を深めた<ref>[http://news.biglobe.ne.jp/social/696/snk_100118_6963951748.html 小沢さんで注目!権力者は「囲碁」で人脈をつくる? ]{{リンク切れ}}</ref>)。
* [[2004年]][[10月23日]]に発生した[[新潟県中越地震]]について「あい続く天災をストップさせるには昔なら元号でも変えるところだが、今必要なのは政権交代ではないか」と公式ウェブサイトで発言し<ref>{{Cite web
| author = 菅直人
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* [[本宮ひろ志]]が、参議院選挙に全国区から立候補、選挙の様子をリアルタイムで執筆し連載する予定だった漫画『[[やぶれかぶれ (漫画) |やぶれかぶれ]]』に秘書らとともに、本宮の指南役として登場している。
* [[東京工業大学]]在学中に[[麻雀]]点数計算機を発明。[[特許]]を取得し、いくつかの企業に製品化を持ち掛けたが、実用化には至っていない。現在もその試作機が存在し、[[千葉県]][[いすみ市]]の[[麻雀博物館]]に展示されている<ref>[http://museum.takeshobo.co.jp/houmotsu/up/index.html 麻雀博物館 宝物閲覧]</ref>。
* かねてから(首相になる前から)、各地方乃至地区に存する総合型(業種ごとに設立する)の[[健康保険組合]]による任意加入に基づく集合団体であり、[[厚生労働省]]及び元[[社会保険庁]]、[[地方支分部局]]並びに現[[日本年金機構]]の[[天下り]]・渡りの受入れ先・斡旋元でもある、[[総合健康保険組合協議会]]のうち、代表格の東京都総合健康保険組合協議会(東総協)の新年賀詞交歓会へ、他の国会議員(当時は[[深谷隆司]])及び[[関東信越厚生局]]の統括社会保険管理官とともに来賓として出席し<ref group="注">[http://commons.wikimedia.org/wiki/File:NewYearCongratulatoryAddressReception-Execution.JPG 写真中央、右側に立つ'''菅 直人'''氏及び左側に立つ'''深谷 隆司'''氏。'''東京都総合健康保険組合協議会(東総協)'''の'''新年賀詞交歓会'''、'''明治記念館2階「富士の間」'''にて。]</ref><ref group="注">[http://commons.wikimedia.org/wiki/File:NewYearCongratulatoryAddressReception-Initial.JPG '''東京都総合健康保険組合協議会(東総協)'''の'''新年賀詞交歓会'''において、'''明治記念館2階「富士の間」'''の演壇に立ち新年の抱負を述べる厚生労働省保険局の地方支分部局である'''関東信越厚生局'''の'''統括社会保険管理官'''。]</ref>、東総協が兼務する中小企業福祉研究会(中小)の[[名誉会員]]でもあり、中小の懇親会にも出席している。
*「合法的に[[特許]]業務可能な職業経験者たる日本国総理大臣」は菅以外では弁護士経験者の初代[[日本社会党委員長]][[片山哲]]と初代[[自民党総裁]][[鳩山一郎]]のみ
 
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: 「菅家のある[[親戚]]は、“菅家は直人さんのところが本家なんですが、元は[[豪族]]だった[[家柄]]。[[江戸時代]]は[[庄屋]]だったそうです。[[岡山大学]]の先生たちが、本家にあった[[古文書]]を歴史研究のために持って行ったほどの由緒のある家。昔から裕福でしたし、直人さんの[[菅實|祖父]]は名医で、その弟は[[弁護士]]。だから、総理大臣が出ても驚きませんでした。それほど、本家の方は皆、優秀でしたから”と述べている。集落には1400年代から続く菅家の古い墓が今も残っている」という。
*[[家紋]]は梅鉢紋である。
* [[菅伸子|伸子]]夫人とは[[いとこ]]同士<ref>[http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/100701/plc1007011945010-n1.htm] 菅伸子夫人、演説デビュー] (MSN産経ニュース){{リンク切れ}}</ref>である。『[[週刊新潮]]』(2010年6月17日号)136頁に「伸子さんの実家姫井家は[[江戸時代]]から代々続く[[医師]]の[[家柄]]。兄[[姫井成|成]]氏で15代目だそうだ。一方、伸子さんの母親は金光町で町会議長を務めたこともあり、普段から政治談議に花を咲かせる家庭だったという」とある。
* [[菅源太郎]]は長男。
 
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{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist|3}}
===注釈===
<references group="注" />
 
<!--=== 関連書籍 ===