「七北田川」の版間の差分

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大量の流砂により河口の位置は不安定で、[[昭和]]初期には海に出る直前で左に直角的に曲がり、現在より約1km北で海に注いだ。蒲生干潟はその当時の河道の名残りである。その後[[仙台港]]の建設にともない、現在の直線的な河道に変更された。
 
江戸時代には鮭が漁業上重要で、七北田川では、[[寛永]]13年([[1635年]])に下流の[[田子村 (宮城郡)|田子村]]と対岸の[[福室村]]で鮭留をめぐる紛争が起きた。藩の史書によれば、この年より十余年前から田子村が鮭留を認められていたところ、藩吏の岩崎三十郎が福室村に鮭留を認めた。ここから両村の紛議がおき、岩崎は仕方よろしからずという理由で11月2日に追放され、福室村の鮭留は否定された。鮭留は鮭の遡行を妨げて獲る仕掛けで、他の場所での漁獲量に影響するため、争いが生じたのである<ref>『義山公治家記録』巻之一、寛永13年11月2日条、平重道・編『伊達治家記録』四(宝文堂、1974年)の394頁。</ref>。
 
== 利水 ==