「松平頼重」の版間の差分

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そもそも頼重の母なる人、頼重の懐妊時、頼房より[[人工妊娠中絶|堕胎]]を命じられしが、[[英勝院]]に相談の上これ(頼重)を生み、頼房に隠して江戸で育てんとす。ひいては光圀懐妊時には、その事実の発覚を避けんと画策し、ために頼重、[[滋野井季吉|滋野井大納言]]に預けられ京都にて養育さるることとなる。その間[[天龍寺]]慈済院の洞叔寿仙に学問を学ぶ。その後[[1632年]]に、水戸からの招きで藩邸に入るも[[1637年]]まで、父頼房にお目見え能わざるものなり。翌[[1638年]]に右京大夫を名乗り将軍拝謁をし、[[1639年|翌年]]常陸下館5万石を得。その後[[生駒騒動]]で改易となり[[天領]]となった讃岐高松に12万石で入封さる。
 
将軍名代として、[[後水尾天皇|後水尾上皇]]に拝謁したり、交通の要所の讃岐を与えられるなど、庶長子とされていても、長男に相応しい待遇を得る。後に実子の[[徳川綱方]]、[[徳川綱條]]が光圀の養子となり、水戸藩[[家督]]は綱條が継ぐ。一方、頼重は光圀の実子・[[松平頼常]]を養子に迎え、高松藩を継がせた。[[延宝]]元年([[1673年]])、養子の頼常に家督を譲って[[隠居]]。[[元禄]]8年([[1695年]])に没した。
 
== 経歴 ==