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== 暗殺 ==
592年[[10月4日 (旧暦)|10月4日]]に、猪を献上する者があった。天皇は笄刀(こうがい)を抜いてその猪の目を刺し、「いつかこの猪の首を斬るように、自分が憎いと思っている者を斬りたいものだ」と発言。そのことを聞きつけた馬子が「天皇は自分を嫌っている」と警戒し、部下に暗殺命令を下した。そして東国の調(ちょう)を進めると偽って天皇を儀式に臨席させ、その席で[[東漢駒|東漢直駒]](やまとのあやのあたいこま)の手により暗殺した。臣下により天皇が殺害されたのは、確定している例では唯一である(他には、毒殺の疑いのある[[孝明天皇]]の例が未確定である。[[安康天皇]]は同じ[[皇族]]によって殺害されているが、史実性が低いので除外されることが多い)。死亡した当日に葬ったことと、[[陵地]]・[[陵戸]]がないことは、他に例が無い。近年、佐藤長門は「[[王殺し]]」という異常事態下であるにも関わらず、天皇暗殺後に内外に格段の動揺が発生していないことを重視して、馬子個人の策動ではなく多数の王族・群臣の同意を得た上での「宮廷クーデター」であった可能性を指摘している<ref>佐藤長門「七世紀における倭王権の展開過程」(初出:『国学院大学研究紀要』39号、2001年/所収:佐藤『日本古代王権の構造と展開』吉川弘文館、2009年 ISBN 978-4-642-02471-6)</ref>
 
== 陵墓 ==