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*[[自由民主党]]時代は「[[ハト派]]」議員として活動。後に旧神奈川2区から[[小泉純一郎]]が当選したが、選挙区内の郵政関係各団体は田川を支援していたため、小泉と郵政各団体との関係は悪化したとされる。
 
*[[1976年]]、[[河野洋平]](田川の[[従弟]])、[[山口敏夫]]らと共に自民党を離党し、新自由クラブの結成に参加。[[西岡武夫]]が路線対立で離党した後、その後任として幹事長に就任。<br/>[[1979年]]、総選挙敗北で新自由クラブ代表を辞任した河野に代わりに第2代代表に就任。<br/>[[40四十日抗争]]の後、当時首相であった[[大平正芳]]が、首班指名で新自由クラブの協力の見返りとして入閣させようとしたが、自民党内の反発で実現しなかった。[[1983年]]、総選挙で過半数割れとなった自民党と[[連立内閣]]を組み、[[第2次中曽根内閣]]の[[自治大臣]]に就任。「張り切り外様大臣」「田川曽根内閣」と揶揄されたこともあった。
 
*[[1986年]]、自民党が衆参ダブル選挙に大勝し、新自由クラブとの連立を解消。選挙での退潮に歯止めがかからない新自由クラブで、河野、山口らは党を解散して自民党復党への道を選択するが、田川だけは「死んでも自民党には帰らない」と、ひとり自民党復党を拒否し、進歩党([[1987年]]<ref name="nikkei">「元新自由ク代表田川誠一氏死去」『日本経済新聞』2009年8月8日、14版、39面。</ref>)を結成した。