「顕宗 (高麗王)」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
124.255.2.77 (会話) による ID:38925618 の版を取り消し
5行目:
顕宗は992年に生まれた。[[太祖 (高麗王)|太祖]]の孫で、父は安宗([[王郁]])、母は献貞王后(=孝粛太后)皇甫氏。顕宗は父母の不倫で生まれ、子供の時から不遇に育った。顕宗の母は彼を生んだ後に病死し、父は流刑となったため、当時の国王[[成宗 (高麗王)|成宗]](顕宗の従兄に当たる)が彼を王宮で養育した。その後、成宗は子供を父に返した方が良いと考えて王郁に返したが、王郁も顕宗が4歳の時に死んだ。
 
997年、成宗を継いで王になった[[穆宗 (高麗王)|穆宗]]は男子がなく、顕宗を次の王にしようと考え、そこで顕宗は1003年、大良院君に冊封された。しかし穆宗の母の献哀王太后は、金致陽との間に生まれた息子(穆宗の異父弟)を次の王に擁立しようとして、1006年に顕宗を強制的に寺刹へ追い出した。献哀王太后はその後も顕宗の[[暗殺]]を何度も試みたが失敗した。1009年2月、康兆が政変を起こし、[[穆宗 (高麗王)|穆宗]]に退位を強要して、金致陽の一派を全員斬首した。代わって顕宗が大臣たちの推戴を受けて王になった。この時18歳であった。
 
== 契丹の侵入から国を守る ==