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楠木 (会話 | 投稿記録)
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=== 政界へ ===
戦後、[[衆議院議員]]であった父・鶴平が[[公職追放]]にあったため、身代わりとして政界に入ることになる。また父の後を継いで[[熊本電気鉄道]]社長も務めた。[[吉田茂]][[首相秘書官]]を経て、{{和暦|1947}}4月、[[第23回衆議院議員総選挙]]に[[日本自由党 (1945-1948)|自由党]]公認で[[熊本県第1区_(中選挙区)|旧熊本1区]]から立候補して当選する。以後、当選15回。
 
{{和暦|1955}}、保守合同により[[自由民主党 (日本)|自由民主党]]に参加する。自民党では[[佐藤派]]に所属し、[[田中角栄]]、[[保利茂]]、[[愛知揆一]]、[[橋本登美三郎]]とともに「[[佐藤派五奉行]]」の一人に数えられる。
 
この間、[[岸信介]]・佐藤栄作両首相の兄弟に重用され、{{和暦|1955}}6月、[[第2次岸内閣]]の[[総理府総務長官]]として初入閣したのを振出しに、[[労働省|労働大臣]]([[第2次岸内閣改造内閣|第2次岸改造内閣]])、[[防衛庁長官]]([[第1次佐藤内閣第1次改造内閣|第1次佐藤改造内閣]])、[[農林大臣]]([[第1次佐藤内閣第2次改造内閣|第1次佐藤再改造内閣]])を歴任した。
 
=== 黒い霧事件 ===
[[1966年]] [[黒い霧事件 (政界)|黒い霧事件]]が発覚。共和製糖事件に現職の農林水産大臣として調査に乗り出すも、[[10月19日]]、自身が新婚であった娘夫婦とラスベガスなどを旅行したのを官費旅行として申請していた事が発覚。辞職には追い込まれなかったものの、[[第1次佐藤内閣 (第3次改造)|改造内閣]]ではポストはなく、[[黒い霧解散]]による[[第31回衆議院議員総選挙|総選挙]]も当選は果たしたが、[[自由民主党総務会長]]となるまで大臣級のポストから遠ざかった。
 
=== 角福戦争・三木おろし ===