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[[浦和学院高等学校|浦和学院高校]]時代は[[清水崇行|清水隆行]]と同学年であった。高校卒業後は、[[東都大学野球連盟|東都]]の[[国士舘大学|国士舘大]]に進み、卒業後は[[日産自動車硬式野球部|日産自動車]]に入団。持ち前のパンチ力で全日本メンバーに選ばれ、[[シドニーオリンピック]]の予選を兼ねたアジア選手権ではプロアマ混成チームながら外野の一角を担った。また、プロがいない全日本では4番を打つこともあった。
 
[[1999年]]ドラフト6位で[[大阪近鉄バファローズ]]に入団。ルーキーイヤーの[[2000年]]から86試合に出場し、準レギュラーとして活躍。また、この年は[[8月22日]]の[[千葉ロッテマリーンズ|ロッテ]]戦の第2打席から、[[8月26日]]の[[埼玉西武ライオンズ|西武]]戦の第2打席まで、史上5人目の13打席連続出塁を記録した<ref>2001 ベースボール・レコード・ブック 101頁 2000年度主要記録集「史上5人目の13打席連続出塁」より。13打席連続出塁の内訳は、「安打8 四球3 死球2」であった。</ref>。以後も、2004年までの5年間で、唯一打撃不振に陥った2003年を除いては、毎年のように打率3割前後、5,6本塁打を記録している。ただし、不振だったその2003年では、[[7月14日]]の対[[北海道日本ハムファイターズ|日本ハム]]戦で、1軍昇格した鷹野は即スタメンで第1打席から3打席連続のホームラン本塁打を放ち、第4打席でもフェンス直撃のツーベースを放ち、試合後のお立ち台で涙を流した。
 
[[2004年]]の球界再編により行われた[[選手分配ドラフト|分配ドラフト]]に伴い、東北楽天ゴールデンイーグルスに移籍した。[[2005年]]は自己最多の90試合に出場し、自己最多の7本塁打を放ったものの、打率は.217と振るわなかった。[[2006年]]、春に手術した左ひざのリハビリに1シーズンを費やした。[[2007年]]は打率.203、1本塁打に終わった。なお、この本塁打は、3月29日の[[福岡ソフトバンクホークス|ソフトバンク]]戦で放ったものだが、プロ初登板初先発を務めたものの2回途中6失点でKOされた[[田中将大]]の黒星を消す同点本塁打だった。
 
[[2008年]]は再び一軍出場はなく、二軍でも147打数35安打の打率.238、3本塁打と不振に終わり、10月に球団から[[戦力外通告]]を受けた。現役続行を希望し、11月の[[12球団合同トライアウト]]に参加するも、他球団から声はかからず、そのまま現役を引退。球団職員としてチームに留まり、「楽天イーグルス ベースボール・スクール」のジュニアコーチとして子供達に野球を教えることになった。
 
== プレースタイル・人物 ==