「ダンシングブレーヴ」の版間の差分

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== 種牡馬時代 ==
引退後は[[ダルハムホールスタッド]]で日本円換算で総額約33億円の大型シンジケートが組まれて[[種牡馬]]入りしたが、[[1987年]]秋、不治の病で奇病とも言われる[[マリー病]]に蝕まれたことを理由に、種牡馬として見切りをつけられてしまう。罹患したのは1987年秋のことで、この年イギリスでマリー病に罹患したサラブレッドはわずかに5頭であったが、よりにもよってその内の1頭が本馬であった。その後も種牡馬活動を続けていたものの、1988年生まれの初年度産駒がほとんど走らなかったことと、体調管理の難しさなどから1991年、ダルハムホールスタッドは早くも見切りをつけて売却を模索し始めた。その金額は、シンジケート総額よりも遥かに格安のものであった。
 
「ダンシングブレーヴが購入可能」という情報打診聞い受けた[[日本中央競馬会]]は購入を検討し、マリー病ゆえにJRAでも馬産地でも賛否両論する激しい議論になったものの、最終的に購買を決断し[[1991年]]に日本へ輸入、[[日本軽種馬協会]]へ寄贈される事となった<ref>一説には、JRAが購買していなければ、このマリー病を理由に殺処分されるところであったという話もある</ref>。ところが、その後、イギリスに残した[[産駒]]から、マリー病罹患後に種付けした世代に[[コマンダーインチーフ]]や[[ホワイトマズル]]など活躍馬が続出し<ref>日本で種付け生産された以前の産駒にもダンシングサーパス(1990年愛国産)が競走馬として輸入され、重賞勝ちこそなかったが宝塚記念3着、大阪杯2着等好走し、一足先に日本の馬場への適性の高さを示していた。</ref>、欧州の関係者を「早すぎた日本への輸出」と嘆かせた。またイギリスではスポーツ紙のみならず一般紙でさえ「早計な判断から起きた国家的な損失」と報じたという。これら産駒はいずれも日本に輸入され、[[中央競馬]]・[[地方競馬]]で活躍馬を出している。日本でも[[エリモシック]]、[[キョウエイマーチ]]、[[キングヘイロー]]、[[テイエムオーシャン]]などを輩出し成功した。
 
その後も体調が不安定で、治療薬の副作用にも苦しみ、必ずしも順調なその種牡馬生活はお世辞にも順調とは言えなかい難いものであったが、空調を導入し馬房の温度管理を徹底したり、専属スタッフが傍らに常駐したりと、関係者の尽力もあって最晩年まで少ないながらも産駒を出し続けた<ref>キングヘイローなどの活躍で種付け依頼が急増したが、関係者の配慮により種付け頭数の制限を無くす事は無かった。最も多い年でさえ40頭強といった数しか種付けをしていない。</ref>。
 
1999年8月2日の早朝に体調が急変して死亡。その最期は、横になったらもはや立ち上がれないと悟っていたのか、病気の苦痛に耐えて最後まで4本の脚で踏ん張り立ったち続け、そのまま息を引き取るという、見事な[[立往生]]であったという。
 
産駒の多くはマイルから中距離を中心に活躍し、父馬同様優れた瞬発力を武器にする。重馬場も苦にしない器用さも併せ持ち、欧州から輸入された種牡馬としては日本の軽い高速馬場への適性も比較的高い。しかしその反面体質が弱い産駒も少なくなく、体調管理の難しさからレースにムラがあるという意見も多い。