「旧中国銀行上海ビル」の版間の差分

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1934年9月、中国銀行はビルの建設に対処するために特別運営議会を設立した。これに海外事務所の本拠地と、上海支店の運営者であるBei Zhuyiが議長に選ばれた。デザインの草案は[[パーマー&ターナー]]、Lu Qianshou、中国銀行建築主任が共同で用意した。地域の会社である、Dao Kee建築会社が入札を勝ち取り、18ヶ月の工事予算として181万3千人民元の費用を求めた。
 
1935年、[[中華民国]]政府は[[中華民国中央銀行|中央銀行]]、[[中国銀行 (中華人民共和国)|中国銀行]]、[[交通銀行 (台湾)|交通銀行]]の再編を始めた。中国銀行は株式の80%を公衆が保有していたが、これは様々な勢力の略奪者の狙いとなった。中国銀行は1500万人民元分の政府の保有する株の追加を強要され、中国銀行は総資本は4000万人民元となり、半分を公衆が保有し、半分を政府が保有するようになった。このため、銀行の制御は政府機関の手に落ち、[[宋子文]]が中国銀行の議長になった。
 
1936年10月10日、宋子文は外灘23号で、新しい中銀ビルの基礎工事祝賀会の議長を務めた。このビルは1937年に骨組みが完成した。しかし、この後すぐ、[[第二次上海事変]]が勃発し、上海も抗日戦争の部隊となった。このため、工事の完成は延期されることになった。1941年、このビルは[[汪兆銘政権|南京国民政府]]の公営銀行として使われるようになった。