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Andee (会話 | 投稿記録)
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一方で光親は[[後鳥羽天皇|後鳥羽院]]の側近として年預別当や、[[順徳天皇]]の執事、[[近衛家実]]や[[藤原麗子]]の[[家司]]なども務めた。
 
承久3年(1221年)に承久の乱が起こると、光親は[[北条義時]]討伐の[[院宣]]を後鳥羽院の院司として執筆するなど<ref>『北条泰時』〈人物叢書〉44頁。</ref>、後鳥羽上皇方の中心人物として活動。しかし実際は[[太上天皇|上皇]]の倒幕計画の無謀さを憂い幾度も[[諫言]]していたが<ref>『北条泰時』〈人物叢書〉44頁。</ref>、後鳥羽上皇に聞き入れられることはなかった。戦後、君側の奸として捕らえられ、処刑されることとなる
 
光親は清廉で純潔な心の持ち主で、同じく捕らえられた同僚の[[坊門忠信]]の助命が叶ったと知った時、心から喜んだといわれるほど清廉で心の美しい人物だったという<ref>『北条泰時』〈人物叢書〉44頁。</ref>。戦後、君側の奸として捕らえられ、甲斐の加古坂([[山梨県]][[南都留郡]])処刑されることとなる<ref>『北条泰時』〈人物叢書〉44頁。</ref>。享年46。処刑の直前に[[出家]]して西親と号し、[[駿河国]]加古坂で[[武田信光]]に斬首された。享年46。[[北条泰時]]はその死後に光親が上皇を諌めるために執筆した諫状を目にし、光親を処刑した事を酷く悔やんだという
 
[[北条泰時]]はその死後に光親が上皇を諌めるために執筆した諫状を目にし、光親を処刑した事を酷く悔やんだという<ref>『北条泰時』〈人物叢書〉45頁。</ref>。
 
『中都記』ないし『心言記』と呼ばれる[[日記]]を著していたが、散逸甚だしく保存状態はあまり良好ではない。
 
== 脚注 ==
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== 系譜 ==