葉室光親

平安時代末期から鎌倉時代前期の公卿。藤原光雅の次男。正二位・権中納言。贈従一位。出家。後鳥羽院側近として承久の乱により処刑された。子に堀川顕親(正五位下、兵部少輔、母は家

葉室 光親(はむろ みつちか)は、平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての公卿藤原 光親とも言う。権中納言藤原光雅の次男。官位正二位・権中納言。1928年(昭和3年)11月10日、贈従一位[1]

 
葉室 光親
時代 平安時代後期 - 鎌倉時代前期
生誕 安元2年(1176年
死没 承久3年7月12日1221年8月1日
改名 光親→西親(法名)
別名 藤原光親
官位 正二位権中納言従一位
主君 後鳥羽天皇土御門天皇順徳天皇
氏族 葉室家
父母 父:藤原光雅、母:藤原重方の娘
兄弟 光親藤原顕俊、光宝、光円、大炊御門師経室、典侍、藤原隆房
吉田経子吉田定経の娘)
定嗣光俊堀川顕親藤原光氏、親暁、円成、鷹司院按察土御門定通室、久我通平正室、藤原高実室、大炊御門師経養女、満子、葉室資頼室、長資朝臣室、滋野井公賢
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経歴 編集

寿永2年(1183年六位蔵人となりまもなく叙爵され、のち豊前守兵部権大輔左衛門権佐・防鴨河使などを歴任する。正治2年(1200年右少弁に任ぜられると、翌建仁元年(1201年)権左少弁に昇進し五位蔵人を兼ね、元久元年(1204年)にはさらに左衛門権佐を兼任して三事兼帯となった。建永元年(1206年蔵人頭・右大弁を経て、承元2年(1208年従三位参議に叙任され公卿に列した。

その後、建暦元年(1211年正三位・権中納言に昇進するが、建保2年(1214年)権中納言を辞任する。建保4年(1216年)正月に権中納言に還任されるが、同年6月再び辞任し、翌建保5年(1217年正二位に昇叙された。またこの間議政官として、右兵衛督検非違使別当按察使を兼任した。

一方で光親は後鳥羽院の側近として年預別当や、順徳天皇の執事、近衛家実藤原麗子家司なども務めた。

承久3年(1221年)に承久の乱が起こると、光親は北条義時討伐の院宣を後鳥羽院の院司として執筆するなど[2]、後鳥羽上皇方の中心人物として活動。しかし実際は上皇の倒幕計画の無謀さを憂いて幾度も諫言していたが[2]、後鳥羽上皇に聞き入れられることはなかった。

光親は清廉で純潔な心の持ち主で、同じく捕らえられた同僚の坊門忠信の助命が叶ったと知った時、心から喜んだといわれるほど清廉で心の美しい人物だったという[2]。『吾妻鏡』によれば、光親は戦後に君側の奸として捕らえられ、甲斐源氏の一族・武田信光によって鎌倉へ護送される途中・駿河国車返の付近で鎌倉からの使の命を受け、甲斐の加古坂(現在の籠坂峠山梨県南都留郡山中湖村)において処刑された[2]。享年46。籠坂峠を越えた静岡県駿東郡小山町須走に光親の墓がある。処刑の直前に出家して西親と号した。

北条泰時はその死後に光親が上皇を諌めるために執筆した諫状を目にし、光親を処刑した事を酷く悔やんだという[3]。ただし、院宣の執筆行為[4]伝奏として院宣発給の事実を太政官に連絡し、それを元にして太政官においても義時追討の官宣旨が作成されていることから、公家の中でも最も重い罪に問われたと考えられている[5]

『中都記』ないし『心言記』と呼ばれる日記を著していたが、散逸甚だしく保存状態はあまり良好ではない。光親は封建道徳における忠臣であった[3]静岡県御殿場市藍澤五卿神社は、承久の乱で処刑された光親・一条信能源有雅葉室宗行藤原範茂を祀っている。

系譜 編集

旧跡 編集

静岡県駿東郡小山町に「藤原光親卿の墓」と「藤原光親卿遥拝殿」がある。

脚注 編集

  1. ^ 官報』号外、「授爵・叙任及辞令」1928年11月10日。
  2. ^ a b c d 『吾妻鏡』承久三年七月十二日。上横手『北条泰時』〈人物叢書〉、44頁。
  3. ^ a b 上横手『北条泰時』〈人物叢書〉45頁。
  4. ^ 息子の葉室定嗣後嵯峨上皇の命で院宣の執筆を行おうとした際に、父親の「追討之院宣」の件を理由に執筆に反対する者がおり、後嵯峨上皇と大殿九条道家の協議で問題なしとされたことが定嗣の日記『葉黄記』寛元4年3月15日条に記されている。
  5. ^ 長村、2015年、98-99頁。

参考文献 編集

  • 上横手雅敬『北条泰時〈新装版〉』吉川弘文館〈人物叢書〉、1988年(初版1958年)。ISBN 4-642-05135-X
  • 槇道雄「藤原光親」、安田元久 編『鎌倉・室町人名事典』新人物往来社、1985年、523-524ページ。ISBN 4-404-01302-7
  • 長村祥知「承久三年五月十五日付の院宣と官宣旨 : 後鳥羽院宣と伝奏葉室光親」『中世公武関係と承久の乱』吉川弘文館、2015年、ISBN 978-4642029285。(初出:『日本歴史』第744号、吉川弘文館、2010年5月、CRID 1520853833078400000。)