「ヴィルヘルム・シュトゥッカート」の版間の差分

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[[ヴィースバーデン]]出身。1919年に[[フランツ・フォン・エップ]]([[:en:Franz Ritter von Epp]])率いる[[ドイツ義勇軍|義勇軍(フライコール)]]に参加。1922年から[[ミュンヘン]]や[[フランクフルト・アム・マイン]]の大学で法学を学ぶ。1922年12月に[[国家社会主義ドイツ労働者党]]に入党(党員番号378,144)。[[弁護士]]となり、ナチ党の法律アドバイザーの一人となる。1928年に法学[[博士号]]を取得。1932年から[[突撃隊]](SA)の隊員となる。ナチス政権誕生後にはプロイセン文化省、ドイツ教育省、そしてドイツ内務省に勤務した。1935年には[[反ユダヤ主義]]法「[[ニュルンベルク法]]」の作成に携わる。1936年には[[親衛隊 (ナチス)|親衛隊(SS)]]の[[親衛隊大佐|大佐]]となり、1944年までに[[親衛隊大将]](SS-Obergruppenführer)となっている。
 
ドイツ内務省で内相[[ヴィルヘルム・フリック]]の次官となる。1942年1月に内務省の代表で[[ラインハルト・ハイドリヒ]]の主宰した[[ヴァンゼー会議]]に出席している。1943年に[[ハインリヒ・ヒムラー]]が内相となった後も次官の地位を保持した。1945年4月下旬にはヒムラーは[[アドルフ・ヒトラー]]の命令で全官位を剥奪された。ヒトラーは自殺にあたっての遺言で[[パウル・ギースラー]]([[:de:Paul Giesler]])(バイエルン州首相・ミュンヘン大管区指導者)をヒムラーの後継内相に指名していた。しかし、大統領となった[[カール・デーニッツ]]は、シュトゥッカートをデーニッツの[[フレンスブルク政府]]の内相に任じた。
 
[[第二次世界大戦]]後、[[ニュルンベルク継続裁判]]の一つ[[大臣裁判]]にかけられた。懲役3年10カ月の判決を受けたが、すでにそれ以上の期間拘留されていたので判決後に釈放された。1953年10月に[[ハノーファー]]の近くで「交通事故」にあって死亡した。ナチ狩りだったといわれる。