ヴィルヘルム・シュトゥッカート
ヴィルヘルム・シュトゥッカート(ドイツ語: Wilhelm Stuckart、1902年11月16日 - 1953年11月15日)は、ドイツ国の法律家、政治家。ドイツ内務省次官[1]。ヴァンゼー会議の出席者の一人[1]。親衛隊大将。
ヴィルヘルム・シュトゥッカート Wilhelm Stuckart | |
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大臣裁判時のシュトゥッカート | |
生年月日 | 1902年11月16日 |
出生地 |
ドイツ帝国 プロイセン王国 ヴィースバーデン |
没年月日 | 1953年11月15日(50歳没) |
死没地 |
西ドイツ ニーダーザクセン州 ハノーファー |
前職 | 弁護士 |
所属政党 | 国家社会主義ドイツ労働者党 |
称号 | 親衛隊大将 |
ドイツ国内務大臣 | |
内閣 | クロージク内閣 |
在任期間 | 1945年5月1日 - 5月23日 |
概要
編集ヴィースバーデン出身。1919年にフランツ・フォン・エップ率いるドイツ義勇軍に参加。1922年からミュンヘンやフランクフルト・アム・マインの大学で法学を学ぶ。1922年12月に国家社会主義ドイツ労働者党に入党(党員番号378,144)。弁護士となり、ナチ党の法律アドバイザーの一人となる。1928年に法学博士号を取得[1]。1932年から突撃隊(SA)の隊員となる。
ナチス政権誕生後にはプロイセン文化省、ドイツ教育省、そしてドイツ内務省に勤務した。1935年には反ユダヤ主義法「ニュルンベルク法」の作成に携わる[1]。1936年には親衛隊大佐、ドイツ法律アカデミー会員、行政法委員会議長となり、1944年までに親衛隊大将となっている[1]。
1938年4月1日、ドイツ内務省で内相ヴィルヘルム・フリックの次官となる。1942年1月に内務省の代表でラインハルト・ハイドリヒの主宰したヴァンゼー会議に出席している[1]。1943年にハインリヒ・ヒムラーが内相となった後も次官の地位を保持した。1945年4月下旬にはヒムラーはアドルフ・ヒトラーの命令で全官位を剥奪された。ヒトラーは自殺にあたっての遺言でパウル・ギースラー(バイエルン州首相・ミュンヘン大管区指導者)をヒムラーの後継内相に指名していた。しかし、大統領となったカール・デーニッツは、シュトゥッカートをデーニッツのフレンスブルク政府の内相に任じた。
第二次世界大戦後、ニュルンベルク継続裁判の一つ大臣裁判にかけられた。懲役3年10カ月の判決を受けたが、すでにそれ以上の期間拘留されていたので判決後に釈放された。1953年11月にハノーファーの近くで「交通事故」にあって死亡した。モサドによる暗殺だったといわれる。
脚注
編集参考文献
編集- フォルカー・ウルリヒ著 著、松永美穂 訳『ナチ・ドイツ最後の8日間 1945.5.1-1945.5.8』すばる舎、2022年。ISBN 978-4799110621。
その他
編集- テレビ映画『謀議』ではコリン・ファースがシュトゥッカートを演じた。
- 映画『ヒトラーのための虐殺会議』ではゴーデハルト・ギーゼが演じた。
公職 | ||
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先代 ハインリヒ・ヒムラー |
ドイツ国内務大臣 1945年 |
次代 - |