「宮島連絡船」の版間の差分

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[[1899年]](明治32年)6月に、宮島有志の共同事業として、地元有志が[[出資]]した[[会社]]「渡津[[合資会社]]」に事業譲渡された。翌年に[[株式会社]]に組織変更され「渡津株式会社」になった。
 
[[1902年]](明治35年)[[4月]]に、「宮島渡航株式会社」が建造した[[宮島丸 (宮島連絡船)|宮島丸]]が就航した<ref group = "補足">「渡津株式会社」と「宮島渡航株式会社」の関係について、『鉄道連絡船再見 海峡を結ぶ"動く架け橋"をたずねて』では不明としている</ref>。
 
[[1903年]](明治36年)に[[山陽鉄道]]が、「宮島渡航株式会社」の桟橋・船舶・航路の一切を買収、[[5月8日]]から山陽鉄道直営航路になる([[山陽汽船商社]]も確認)。宮島駅(現在の[[宮島口駅]])の駅長が宮島航路も兼任することになり、汽車と汽船の連絡切符を販売した。同年の7月時点で10往復していた。[[1905年]](明治38年)[[11月]]に、より大型の[[厳島丸 (宮島連絡船)|厳島丸]]と交代した。
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=== 沿革 ===
* [[1897年]](明治30年)[[6月]] - 広島市在住の早速勝三が経営する渡船として発足
* 1897年(明治30年)[[9月25日]] - [[山陽鉄道]]延伸に合わせて就航開始
* [[1899年]](明治32年)6月 - 地元有志が出資した会社「渡津合資会社」に移管
* [[1900年]](明治33年)[[9月]] - 会社組織を「渡津株式会社」に改組