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[[東京都立日比谷高等学校|都立一中]]、[[第一高等学校 (旧制)|一高]]を経て、1954年[[東京大学]]文学部美学科卒。1967年[[多摩美術大学]]美術学部共通教育非常勤講師。1968年同大学助教授。1973年教授。1981年芸術学科を創設。1993年名誉教授。[[ヴィネチア・ビエンナーレ]]の日本館コミッショナーや[[美術評論家連盟]]の会長などを歴任。
 
1954年、「[[パウル・クレー]]論」で[[美術出版社]]の美術評論新人賞を受賞し、美術評論家として活動を始めた。[[大岡信]]、[[飯島耕一]]らと共に[[シュルレアリスム]]研究会を設立。欧米に遊学し、[[抽象表現主義]]や[[ネオ・ダダ]]などの海外の美術動向を日本に紹介した。[[ジャクソン・ポロック]]と[[ジャスパー・ジョーンズ]]の紹介はとくによく知られている。[[1960年代]]、[[読売アンデパンダン展]]をめぐり、[[宮川淳]]と「[[反芸術]]」論争を行った。[[1970年代]]は[[マルセル・デュシャン]]の研究に没頭し、[[瀧口修造]]らとともに『[[大ガラス]](彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも)』の東京版[[レプリカ]]を制作した。
 
1967年から多摩美術大学で教えはじめ鞭をとり、1981年に同大学の芸術学科を創設(1970年に設立予定だったが、学園紛争の影響で、1981年度からの学生募集となった)。「[[アート]]」を狭い枠で捉えず、ファッション・演劇・建築・音楽・文学などを横断するものと捉えていた。ゼミでは現代美術展「[[TAMA VIVANT]]」を開催し、多くの[[キュレーター]]を育てた。[[美術家]]となった教え子には[[海老塚耕一]]・[[古田裕]]らがいる。
 
素潜りが趣味で、水中写真の撮影を数多く行い、写真展も幾度か開催した。
 
[[1990年]]に[[脳梗塞]]で倒れ、闘病生活ののち、2005年11月19日に75歳で死去した。
 
美術雑誌「[[美術の窓]]」に、美術評論家の[[米倉守]]による東野芳明の評伝「アクアデミックの詩学」が連載されたが、米倉の死去により未完となった
 
==著書==