「藤原成親」の版間の差分

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== 生涯 ==
=== 生い立ち ===
父・家成が[[鳥羽天皇|鳥羽法皇]]の第一の[[院の近臣|寵臣]]であったことから昇進は早く、[[康治]]元年([[1142年]])に5歳で[[従五位|従五位下]]に叙せられる。[[天養]]元年([[1144年]])7)、7歳で[[越後国|越後]][[国司|守]]になって以降、[[讃岐国|讃岐守]]・[[侍従]]・越後守(再任)を歴任する。父同様に鳥羽法皇の側近となり、[[保元]]元年([[1156年]])4月には[[院宣]]により[[賀茂祭]]の祭使に選ばれ、19歳で[[近衛府|左近衛少将]]に[[任官|任じられた]](『[[兵範記]]』)。[[藤原頼長]]が[[永治]]元年([[1141年]])、成親の兄・[[藤原家明|家明]]が左少将になったことを[[藤原頼長]]が「諸大夫の僣上」と非難<ref>このような非難の一方で、頼長は家明の弟である成親とは男色の関係にあったとする説もある。<!-- 五味文彦は、仁平2年([[1152年]])、頼長が情交をもち、同時に射精したと記している相手を成親と推定している(『院政期社会の研究』)。 --></ref>しているように、近衛少将は本来なら上流[[貴族]]の[[官職]]だった。成親が左少将となったのは、家成一門の[[家格]]の上昇と鳥羽法皇の厚い信頼を物語るものといえる。同年7月、鳥羽法皇の[[葬儀]]で成親は、[[信西]]らとともに入棺役を務めた。
 
=== 後白河院の側近 ===
保元3年([[1158年]])、右近衛中将となる。翌年には[[正四位|正四位下]]に叙せられ、越後守の重任も認められた。異母兄の隆季・家明が[[藤原得子|美福門院]]に近く仕えたのに対して、成親は妹が[[藤原信頼]]の妻となっていた関係から信頼と行動をともにするようになり、[[後白河天皇|後白河上皇]]の側近に加わった。後白河院の成親への信頼は厚く、[[男色]]関係にあったとする<ref>「院ノ男ノオボヘニテ」「ナノメナラズ御寵アリケル」(『愚管抄』)</ref>。
 
[[平治の乱]]では藤原信頼とともに武装して参戦する。敗北後、信頼が処刑されたのに対して、成親は妹・経子が[[平重盛]]の妻であったことから特別に助命され、処分は軽く[[解官]]にとどまった。『[[愚管抄]]』によれば、「フヨウノ若殿上人」<ref>「フヨウ」の意味については「不要」(取るに足らない)ノ若殿上人の他に、「芙蓉(美貌)、または「武勇」とする解釈もある(元木泰雄「藤原成親と平氏」『立命館文学』605、2008年)。</ref>とみなされたという。
 
[[永暦]]2年([[1161年]])4月、成親は右中将に還任する。美福門院の死後、後白河院政派と二条親政派対立は激化しており、後白河上皇は自らの政治基盤の強化を意図していた。しかし同年7月に、[[平時忠]]らによる憲仁親王(後の[[高倉天皇]])立太子の[[陰謀]]が発覚すると、[[二条天皇]]はただちに後白河院の近臣を解官した。成親もその中に含まれており、翌年には召還されるものの昇進は停滞し、二条親政下の政界では雌伏を余儀なくされる。
 
二条天皇[[崩御]]後の[[仁安 (日本)|仁安]]元年([[1166年]])正月、成親は左近衛中将に任じられる。後白河院の復権の恩恵を受けて、同年6月[[蔵人頭]]、8月[[参議]]、12月には5人の上臈を超えて、29歳にして[[正三位]]に叙せられた。この年の10月には憲仁親王の立太子が実現し、後白河院は[[平清盛]]の後援を得て[[院政]]を本格的に開始した。成親は翌年、[[中納言|権中納言]]となる。平重盛の義兄であることから重盛との関係は親密で、娘は後に重盛の嫡子・維盛の妻となっている。[[嘉応]]元年([[1169年]])11月、[[高倉天皇]]の八十嶋祭では経子が[[勅使]]役を務め、成親も兄・隆季や平氏一門とともに付き従った。