「大政翼賛会」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
39行目:
1942年[[6月23日]]には[[大日本産業報国会]]・[[農業報国連盟]]・[[商業報国会]]・[[日本海運報国団]]・[[大日本婦人会]]・[[大日本青少年団]]の6団体を傘下に統合した。その後、[[1945年]]3月に組織の一部が[[翼賛政治会]]を改組した[[大日本政治会]]と統合され、6月に[[本土決戦]]に備えた[[国民義勇隊]]結成により解散となった。しかしこれは政府首脳と軍部による強引な統廃合であったため、これに反発した翼賛政治会の一部が[[護国同志会]]などを結成。軍部と結んだ大日本政治会に対抗するなど混乱を来たし、収拾がつかないまま日本は終戦をむかえることとなった。
 
なお、現代では、大政翼賛会のような組織は存在しないが、国会などにおいては[[野党]]が連立を組む[[与党]]の連立治手法を揶揄する言葉として使用することが時折見受けられる<ref>例えば、当時の政権与党であった[[自由民主党]]が[[新進党]]の支持を取り付けた時、1997年4月11日衆議院本会議で[[米軍用地特別措置法]]改正案の特別委員会の委員長を務めた[[野中広務]]は委員会報告の中で
「この法律がこれから沖縄県民の上に軍靴で踏みにじるような、そんな結果にならないようことを、そして、私たちのような古い苦しい時代を生きてきた人間は、再び国会の審議が、どうぞ'''大政翼賛会'''のような形にならないように若い皆さんにお願いをして、私の報告を終わります」と報告を締めくくった。なお、この部分は議事録では削除された。</ref>。また最近はいわゆる[[ねじれ国会]]による国政停滞の打開策として盛んに唱えられている与野党の[[大連立構想]]に対する批判にも用いられる事がある。