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== 能楽の語義 ==
[[江戸時代]]までは[[猿楽]]と呼ばれていたが、[[1881年]]([[明治]]14年)の[[能楽社]]の設立を機に能楽と称されるようになったものである。[[明治維新]]により、[[江戸幕府]]の式楽の担い手として保護されていた猿楽の役者たちは失職し、猿楽という[[芸能]]は存続の危機を迎えた。これに対し、[[岩倉具視]]を始めとする政府要人や[[華族]]たちは資金を出し合って猿楽を継承する組織「能楽社」を設立。[[芝公園]]に[[芝能楽堂]]を建設した。この時、発起人の[[九条道孝]]らの発案で猿楽という言葉は能楽に言い換えられ、以降、現在に至るまで、能、式三番、狂言の3種の芸能を総称する概念として使用され続けている<ref>西野春雄 羽田昶『新版 能・狂言事典』平凡社、2011年、ISBN 9784582126419、310ページ</ref>。
 
== 近代の能 ==
[[幕府]]の儀式芸能であった猿楽は、明治維新後[[家禄]]を失ったことにより他の多くの芸能と同様廃絶の危機に瀕した。[[明治2年]]([[1869年]])には[[イギリス]][[王子]][[アルフレート (ザクセン=コーブルク=ゴータ公)|エディンバラ公アルフレッド]]の来日に際して猿楽が演じられたが、[[明治5年]]([[1872年]])には能・狂言の「皇上ヲ模擬シ、上ヲ猥涜」するものが禁止され、「勧善懲悪ヲ主トス」ることも命じられた。
 
しかし、[[明治天皇]]は[[明治]]11年([[1878年]])に[[青山御所]]に能舞台を設置し、数々の猿楽を鑑賞した。また[[欧米]][[外遊]]の際に各国の芸術保護を実見した[[岩倉具視]]は、[[華族]]による猿楽の後援団体設立に向けて動き始め、明治12年([[1879年]])に[[ユリシーズ・グラント]]を自邸に招いて猿楽を上演させ、更に能楽社(のちの[[能楽会]])の設立や明治14年([[1881年]])落成の[[芝能楽堂]]の建設を進めた<ref>芝能楽堂は、日本初の[[能楽堂]](能舞台を屋内に収めたもの)である。</ref>。この時、能楽社の発起人[[九条道孝]]らの発案で猿楽を能楽と言い換え、「猿楽の能」は「能楽の能」と呼ばれることになる<ref>西野春雄 羽田昶『新版 能・狂言事典』平凡社、2011年、ISBN 9784582126419、310ページ</ref>。
 
明治維新後他の多くの芸能が絶えたなか、名称を能楽と言い換え猿楽の危機は過ぎ去った。だが、やがて各流派はお互いに排他的姿勢を見せるようになり、流派間の交流や共演は消滅していった。
 
== 戦時中の能 ==
その後、[[日中戦争]]が起こって[[戦時体制]]に入ると、[[皇室]]を多く題材とした能には厳しい目が注がれるようになり、[[昭和]]14年([[1939年]])、[[警視庁]]保安課は[[不敬罪|不敬]]を理由に「大原御幸」を上演禁止とした。その一方で、[[日清戦争]]、[[日露戦争]]、[[第二次世界大戦]]を題材とした新作能も作られるようになった。
 
== 戦後 ==
[[第二次世界大戦]]の[[敗戦]]は、能の世界に大きな転機をもたらした。[[戦災]]によって多くの能舞台が焼失したため、それまで流派ごとに分かれて演能を行っていた[[能楽師]]たちが、焼け残った能舞台で流派の違いを超えて共同で[[稽古]]を行い始めたのである。そのため、若手の能楽師たちは他流派の優秀な能楽師からも教えを受けることが多くなり、大いに刺激を受けるようになった。観世銕之丞家の次男であった[[観世栄夫]]はこの時、観世流と他流の身体論の違いに大きな衝撃を受け<ref>観世栄夫『華より幽へ』白水社、2007年</ref>、結果的に芸養子という形で[[喜多流]]に転流して[[後藤得三]]の養子となり、後藤栄夫を名乗った。また栄夫の弟で八世観世銕之丞となった[[観世静夫]]も、この時期の他流との交流開始の衝撃の大きさを語っている<ref>観世銕之丞『ようこそ能の世界へ』暮しの手帖社、2000年</ref>。
 
この時期にこうした交流の場となった能舞台としては、多摩川能舞台(現在は銕仙会能楽研修所に移築)などが挙げられている。
 
== 能楽の技法 ==