「一条兼定」の版間の差分

日本の戦国時代~安土桃山時代のキリシタン、戦国大名、土佐国司。土佐一条氏5代。一条房基の嫡男。従三位左近衛少将、左近衛中将、権中納言
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
(相違点なし)

2004年6月8日 (火) 05:10時点における版

一条兼定1543年1585年)は一条氏最後の当主。一条房基の嫡男。

「性質軽薄にて、人の諫言を顧みない」と評されるほど、暗愚な武将だったらしい。1549年、父が狂気で死んだために後を継ぐ。

1558年伊予宇都宮豊綱の娘を娶るが、1564年に離別して大友宗麟の妻を娶ったために、伊予の諸大名を敵に回すことになってしまう。1568年には伊予の諸大名を助ける毛利氏と戦って大敗を喫する。

この頃から長宗我部元親の力が台頭してきたために、兼定は妹婿の安芸国虎と呼応して元親を討とうとしたが、1569年に国虎が逆に元親に討たれてしまい、計画はご破算となる。

その後は元親の侵攻に遭って領土は縮小の一途をたどる。しかし何を考えたのか、1573年、権中納言の官位をもらう。官位で元親を抑えることができるとでも考えたのであろうか。しかし筆頭重臣であった土居宗珊を無実の罪で殺したために家臣団が兼定に反発し、兼定は1574年豊後に追放されてしまった。

1575年、再興を図って土佐に進撃したが、四万十川の戦いで大敗し、一条氏は完全に滅亡してしまった。

ちなみに兼定はキリシタンであり、ドン・パウロという洗礼名を持っている。