「ヤネッテ・フサロバ」の版間の差分

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== 来歴 ==
[[1991年]]にプロ入り。[[1994年]]に初めて世界ランキング100位以内に入り、[[1996年]]に女子ツアーのダブルス大会で2勝を挙げる。[[1997年]]1月、[[ニュージーランド]]・[[オークランド (ニュージーランド)|オークランド]]大会のダブルスで[[ベルギー]]の[[ドミニク・モナミ|ドミニク・ファン・ルースト]]と組んで優勝し、女子ツアーでダブルス3勝目を挙げたが、直後の[[1997年全豪オープン|全豪オープン]]1回戦で[[シュテフィ・グラフ]]と対戦中に右膝の[[靭帯損傷|靱帯断裂]]を起こし、グラフの第1セット 5-1 リードで途中棄権したことがある。フサロバはこの故障で右膝の手術を受け、7ヶ月間の戦線離脱を経験した。[[シドニーオリンピックにおけるテニス競技|2000年シドニー五輪]]で、フサロバは[[オリンピックテニス競技|オリンピック]]の[[オリンピックスロバキア選手団|スロバキア代表選手]]として初出場を果たし、[[カリーナ・ハブストバ]]と組んだ女子ダブルスで2回戦に進出した。初めてのオリンピックで、フサロワとハブストバは女子ダブルス2回戦でベルギー代表の[[ドミニク・モナミ|ドミニク・ファン・ルースト]]&[[エルス・カレンズ]]組に敗れた。[[2001年]]は[[2001年全仏オープン|全仏オープン]]で初めてのシングルス3回戦に進出し、ダブルスで年間4勝を挙げている。
 
ヤネッテ・フサロバは[[2002年]]、シングルス・ダブルスともに最も充実したシーズンを送った。年頭の[[2002年全豪オープン|全豪オープン]]で、フサロワは3回戦で[[日本]]の[[杉山愛]]を破り、第4シードの[[キム・クライシュテルス]]との4回戦まで進出した。この年はダブルスで年間6勝を挙げたが、そのうち4つが[[エレーナ・デメンチェワ]]とペアを組んで獲得したものである。フサロバとデメンチェワは、[[2002年全米オープン (テニス)|全米オープン]]で初めての[[グランドスラム (テニス)|4大大会]]女子ダブルス決勝に進み、[[ビルヒニア・ルアノ・パスクアル]]([[スペイン]])&[[パオラ・スアレス]]([[アルゼンチン]])組に 2-6, 1-6 で敗れて準優勝になった。同年11月、フサロバは女子テニス国別対抗戦・[[フェドカップ]]でスロバキア・チームの初優勝に貢献した。フェド杯初優勝の翌週には、デメンチェワとのペアで女子ツアー年間最終戦・[[WTAツアー選手権]]のダブルスにも初優勝を飾った。