「右衛門佐局」の版間の差分

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==生涯==
5代[[征夷大将軍|将軍]][[徳川綱吉]]の時代、[[霊元天皇]]の[[後宮]]で'''常盤井の局'''(ときわいの つぼね)の名で仕えており、宮中随一の才媛と呼ばれていた。[[貞享]]2年([[1685年]])には、綱吉と[[瑞春院|伝]]の間に生まれた[[鶴姫 (徳川綱吉長女)|鶴姫]]付の上臈として[[紀州徳川家|紀州家]]に入る。その後、江戸城本丸大奥へ入った。または、[[御台所]][[鷹司信子]]の妹で[[中宮]]の[[鷹司房子]]の推薦により、信子付[[上臈御年寄]]として江戸城本丸大奥入りしたと伝えられる<!--されません-->
 
江戸城大奥に入ってから名を右衛門佐と改め、将軍付[[上臈御年寄]]として大奥の総取締を担ったと考えられている。その後は[[寿光院|大典侍(寿光院)]][[清心院|新典侍(清心院)]]といった公家の姫を綱吉の側室として迎え入れることに奔走した。<!--また、[[正親町町子]]も右衛門佐の紹介で大奥に入り、鷹司信子の斡旋により[[柳沢吉保]]の側室となった。-->
 
宝永3年(1706年)、57歳で死去した。法名は心光院殿古鑑貞円大姉(心光院古媼貞円)。墓所は[[東京都]][[新宿区]]の[[月桂寺]]にある。
 
==関連作品==