「ワシリー・カンディンスキー」の版間の差分

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[[1896年]]に[[ミュンヘン]]で絵の勉強を始め、[[象徴主義]]の大家[[フランツ・フォン・シュトゥック]]に師事する。[[1902年]]、[[ベルリン]]の分離派展に出品。[[1904年]]からは[[パリ]]のサロン・ドートンヌにも出品している。[[1909年]]には[[新ミュンヘン美術家協会]]会長となるが、[[1911年]]には[[フランツ・マルク]]とともに脱退して「[[青騎士]]」(デア・ブラウエ・ライター)を結成した。その間の[[1910年]]に最初の抽象画を手掛け、絵画表現の歴史の新たな一歩を記している。代表作の『コンポジション』シリーズはこの最初のドイツ滞在期に制作された。
 
[[ロシア革命|革命]]後、[[1918年]]にモスクワに戻った。当時のソ連では[[前衛美術|前衛芸術]]は[[ウラジル・レーニン]]によって「革命的」として認められており、カンディンスキーは[[政治委員]]などを務めた。しかし、[[ヨシフ・スターリン]]が台頭するにつれ前衛芸術が軽視されるようになり、スターリンが共産党書記長に就く直前の[[1921年]]に再びモスクワを離れてドイツへと向かった。
 
[[1922年]]からは[[バウハウス]]で教官を務め、[[1933年]]に[[ナチス・ドイツ]]によってバウハウス自体が閉鎖されるまで勤務した。[[1941年]]にフランスがナチスによって占領されたのにも関わらず、彼は[[アメリカ合衆国|アメリカ]]への移住を拒否し続け、パリ郊外に位置する[[ヌイイ=シュル=セーヌ]]でその生涯を閉じた。なお、[[1928年]]にはドイツ国籍、[[1939年]]にはフランス国籍を取得している。