「尚泰王」の版間の差分

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[[1853年]]([[咸豊]]3年)には[[マシュー・ペリー|ペリー]]が琉球に来航し、翌[[1854年]]に[[琉米修好条約]]を締結した。さらに、[[1855年]]には[[琉仏修好条約]]、[[1859年]]には[[琉蘭修好条約]]を結んだ。
 
元来、琉球は[[薩摩藩]]の附庸国かつ[[清]]の朝貢国として一定の独自性を保っていたが、他府県の[[廃藩置県]]も済んだ翌年の[[1872年]]([[同治]]11年、[[明治]]5年)に、日本は琉球国王尚泰を[[琉球藩]][[藩王|王]]に封じて華族とし、東京に藩邸を与えた。うして[[1879年]]([[光緒]]5年、明治12年)の[[沖縄県の歴史#琉球処分|琉球処分]]により琉球藩に[[沖縄県]]が設置されると、藩王の地位は無くなり居城の[[首里城]]も出ることとなり、琉球藩は消滅した。尚泰たちは琉球王家の屋敷の一つ中城御殿に移ったが、明治政府より[[東京]]移住を命令され、[[華族]]として東京へ居を移した。尚泰の次男[[尚寅]]、四男[[尚順]]は後に沖縄に帰ってきている。
 
のち[[華族令]]の発令に伴って尚泰は[[侯爵]]となった。[[1901年]](明治34年)に59歳で没。墓所は[[沖縄県]][[那覇市]]の琉球王家の陵墓・[[玉陵]](たまうどぅん)。なお、尚家は現在も存続している。