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== 歴史 ==
[[永享]]12年([[1440年]])、三河国[[碧海郡]]周辺を支配していた[[和田氏]](畠山氏の一族と言われる)の和田親平が築城したとされる(安祥城築城以前は、西隣の[[安城古城]]が本拠地になっていた)。築城当初は居館であった。その後[[文明 (日本)|文明]]3年([[1471年]])、[[三河国]][[岩津城]]主の[[松平信光]]が謀略を用いて無血落城させ、以後4代、松平氏の居城となる。この4代の間を安祥松平氏と呼ぶ。『[[徳川実紀]]』によれば、[[大永]]4年([[1524年]])、4代目の[[松平清康]](徳川家康の祖父)は、[[岡崎城]]を取得するも、なお安祥を本拠とし、[[森山崩れ]]で逝去するまで、安祥松平家(徳川本家)の本拠地となった。徳川本家の本城が[[岡崎城]]になるのは、[[松平広忠]]の時代からである。
 
東照宮御実紀巻一には、畠山加賀守某が安祥の城を攻め抜かれ、と記載されている。
 
『新編柳営続秘鑑』「十二巻・葵之御紋来由」によると、[[松平信光]]が、[[文明 (日本)|文明]]11年[[7月15日]]([[1479年]][[8月2日]])の安祥城攻めの時、[[酒井氏]]の祖である酒井親清に、三葵の葉の家紋を与えたという(その後、[[文亀]]元年([[1501年]])9月、[[松平長親]]の時に今川方大将の[[北条早雲]]と岩付の城下の岩津城下にて合戦勝利、先陣の酒井左衛門尉・氏忠・入道浄賢の働きを顕彰し、信光が与えた三ツ葵の[[酒井氏]]の家紋を奉還してもらい、徳川家の家紋となったという。これ以後、[[酒井氏]]は、葵紋に似た酸漿(カタバミ)の家紋となったという)。
 
しかし、[[天文 (元号)|天文]]4年([[1535年]])に清康が家臣に殺され森山崩れが起こると、継嗣・[[松平広忠]](徳川家康の父)を一族の[[松平信定]](広忠の大叔父)が[[岡崎城]]から追放し実権を握るが、翌天文6年([[1536年]])に信定が岡崎城を退去したため、広忠が再入城する(その後、信定は許される)。しかし、三河の諸豪族が相次いで離反し、一族からも謀反が起こるなど松平氏は弱体化した。