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== 歴史 ==
[[永享]]12年([[1440年]])、三河国[[碧海郡]]周辺を支配していた[[和田氏]](畠山氏の一族と言われる)の和田親平が築城したとされる(安祥城築城以前は、西隣の[[安城古城]]が本拠地になっていた)。築城当初は居館であった。その後[[文明 (日本)|文明]]3年([[1471年]])、[[三河国]][[岩津城]]主の[[松平信光]]が謀略を用いて無血落城させ、以後4代、松平氏の居城となる。この4代の間を安祥松平氏と呼ぶ。『[[徳川実紀]]』によれば、[[大永]]4年([[1524年]])、4代目の[[松平清康]](徳川家康の祖父)は、[[岡崎城]]を取得するも、なお安祥を本拠とし、[[森山崩れ]]で逝去するまで、安祥松平家(徳川本家)の本拠地となった。徳川本家の本城が[[岡崎城]]になるのは、[[松平広忠]]の時代からである。
東照宮御実紀巻一には、畠山加賀守某が安祥の城を攻め抜かれ、と記載されている。
『新編柳営続秘鑑』「十二巻・葵之御紋来由」によると、
しかし、[[天文 (元号)|天文]]4年([[1535年]])に清康が家臣に殺され森山崩れが起こると、継嗣・[[松平広忠]](徳川家康の父)を一族の[[松平信定]](広忠の大叔父)が[[岡崎城]]から追放し実権を握るが、翌天文6年([[1536年]])に信定が岡崎城を退去したため、広忠が再入城する(その後、信定は許される)。しかし、三河の諸豪族が相次いで離反し、一族からも謀反が起こるなど松平氏は弱体化した。
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