「ウィリアム・ローワン・ハミルトン」の版間の差分

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RJANKA (会話 | 投稿記録)
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[[光学]]への数学の応用、[[ハミルトニアン]]、数学理論による自然現象の予言、[[解析力学]]の創始、代数系の基礎付けなど、前半生の業績は非常に華々しく、「ニュートンの再来」と呼ばれた当時の評判に恥じない物がある。
[[Image:William_Rowan_Hamilton_Plaque_-_geograph.org.uk_-_347941.jpg|thumb|right|ブルーム橋にある四元数発見の碑文。散歩の途中閃きを得たハミルトンは、四元数を定義する式を橋に刻み付けた。]]
[[複素数]]を[[実数]]と演算規則により公理化していたハミルトンは、複素数を三次以上に一般化する事に心血を注ぎ、十年程を経た[[1843年]][[10月16日]]、ブルーム橋([[:en:Broom Bridge|en]])にさしかかった所でついに[[四元数]]の概念に到達する。四則演算を保存しない四元数は極めて斬新なアイデアで、その後の代数学全体に多大な影響を残した。
 
しかし当のハミルトンは、四元数の実用化に取り憑かれ、その後約20年を四元数の研究に費やすようになる。700ページを超す大著『四元数講義』は[[オーガスタス・ド・モルガン|ド・モルガン]]、[[ウィリアム・ハーシェル|ハーシェル]]らに難解と評され、『四元数の基礎』を著するがこれも長過ぎて生前に出版される事はなかった。
 
晩年のハミルトンは、[[アルコール中毒]]に溺れながら誰にも理解される事のない数学研究に没頭した。遺体が発見された時、ハミルトンの部屋は酒と肉汁にまみれた二百数十冊のノートで埋め尽くされており、この中には正しい物、誤った物、判断のつかない物が入り混じった数式の山が残されていたという。また四元数は一部に「四元数カルト」と呼ぶべき一団を構成するものの、大勢からは無視され、省みられるまでに100年ほどの時間を必要とした。
 
==関連項目==