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安海 (会話 | 投稿記録)
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9代・[[島津忠国]]の代になると、島津氏は守護大名として確立し、比較的安寧な時期が続いたが、大小の内紛は散発していた。特に忠国の弟である[[島津用久]](好久・薩摩守)が声望を増したため、兄弟間の対立が起こった。この争いは中央で6代将軍・[[足利義教]]との権力闘争に敗れた[[大覚寺義昭]]を討った忠国に幕府が味方したため、好久が降伏し、忠国の勝利に終わった。この際に忠国は好久に薩州家を立てさせ、ある程度の譲歩をしている。
 
10代・[[島津立久]]の時代には[[応仁の乱]]が勃発し、島津氏は東軍に属した(但し派兵せず)。11代の[[島津忠昌]]は[[桂庵玄樹]]を招聘して薩南学派を起こすなど学問を好んだが、領国内の一族・国人が立て続けに挙兵したため、世を儚んだ忠昌はついに自害して果てた。その後も12代・[[島津忠治]]、13代・[[島津忠隆]]が継承したが、いずれも早世したため、国内の島津氏一族・国人、大隅の肝付氏、日向の伊東氏を押さえることは叶わず、14代・[[守護家の島津勝久]]が当主となった頃には宗家は全く弱体化してしまっていた。
 
=== 戦国時代から安土桃山時代へ ===