「大津街道」の版間の差分

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{{Otheruses|大津宿と伏見宿を結ぶ街道|[[豊後街道]]の一部|大津街道 (豊後街道)}}
'''大津街道'''(おおつかいどう)は、[[大津宿]]と[[伏見宿 (京街道)|伏見宿]]を結ぶ街道。[[東海道]]・[[京街道]]の一部。'''伏見街道'''とも呼ばれる。
東海道の大津宿から京都中心部を通らず、[[髭茶屋追分]]から[[山科盆地]]を南下し、[[勧修寺]]から[[伏見稲荷大社|稲荷山]]の南麓に抜ける道([[大岩街道]])を通って京街道の伏見宿に至る街道。現在の[[滋賀県道・京都府道35号大津淀線]]である。これを南方から辿ると、伏見からしばらくは[[伏見街道]]を行くが、[[藤森神社]]前で東に分岐し、現[[京都教育大学]]キャンパス東方で再び北向きに転じ、JR奈良線を斜めに横切り小さな屈曲を経て大岩街道に合流し、これを東に辿れば山科勧修寺に至る。ここから山科盆地を北上し追分で三条大橋を起点とする東海道に合流する。
 
大津宿までの東海道と大津街道、伏見宿から大阪までの街道を総称して[[東海道五十三次#東海道五十七次|東海道五十七次]](伏見宿、淀宿、枚方宿、守口宿を加える)とすることもある。[[江戸幕府]]が[[参勤交代]]の西国大名が都に入り[[朝廷]]と接触することを嫌ってつくられ、[[江戸幕府]]が造ったとされる。藤森神社の鳥居には後水尾天皇の[[勅額]]が挙げられていたため、社前では参勤交代の大名も下馬・一礼しなければならなかった。幕末にはこれを嫌った[[近藤勇]]が、鳥居から勅額を下ろさせたとの伝説もある。
 
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