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沈叔仁の子として生まれた。幼くして父を失い、貧苦のうちに成長した。[[450年]]([[元嘉 (南朝宋)|元嘉]]27年)、[[北魏]]の[[太武帝]]の軍が南進してくると、宋ではこれに対応するために三呉の民丁が徴発され、攸之もまた徴兵された。攸之は[[建康 (都城)|建康]]に入ると、領軍将軍の[[劉遵考]]のもとを訪れて、白丁隊主に任じるよう求めた。劉遵考が聞き入れなかったため、攸之は一族の[[沈慶之]]の下で従軍した。[[452年]](元嘉29年)、西陽蛮を討ち、はじめて隊主に任じられた。
 
[[453年]](元嘉30年)、[[劉劭 (南朝宋)|劉劭]]が[[文帝 (南朝宋)|文帝]]を殺害して帝を称し、武陵王[[孝武帝 (南朝宋)|劉駿]]が巴口で起兵すると、攸之は劉駿の下で南中郎府長史に任じられ、行参軍を兼ねた。新亭の戦いで重傷を負った。劉劭の乱が平定されると、攸之は江夏王[[劉義恭]]の下で太尉行参軍となり、平洛県五等侯の爵を受けた。劉義恭に従って大司馬行参軍に転じた。[[456年]]([[孝建]]3年)、[[揚州]]に都部従事の官が再び置かれると、攸之は[[長江]]の北岸を管轄した。後に員外散騎侍郎に転じた。また沈慶之の下で[[459年]]([[大明]]3年)、竟陵王[[劉誕 (南朝宋)|劉誕]]が広陵で反乱を起こした竟陵王[[すと、攸之は沈慶之の下で劉誕]]を討ち、功績を挙げたが、矢を受けに当たって骨折した。孝武帝(劉駿)は攸之の善戦をみて、仇池の歩兵を配属した。反乱が平定されると、厚く恩賞を加えられるはずであったが、沈慶之のために少なく抑えられ、太子旅賁中郎の任に移されたため、攸之は沈慶之のことを恨んだ。[[463年]]([[大明]]7年)、母が死去したため辞職したが、葬儀が終わると、龍驤将軍・武康県令に起用された。
 
[[465年]](景和元年)、豫章王[[劉子尚]]の下で車騎中兵参軍となった。宮中に宿直して宗越・譚金らとともに[[前廃帝 (南朝宋)|前廃帝]]に寵遇され、東興県侯に封じられた。まもなく右軍将軍の号を受けた。同年([[泰始 (南朝宋)|泰始]]元年)12月、[[明帝 (南朝宋)|明帝]]が即位すると、宗越・譚金らは明帝に叛いたが、攸之は明帝に従って宮中に宿直し、[[東海郡]][[太守]]に任じられた。[[466年]](泰始2年)、明帝即位に反対する勢力が各地で起兵すると、攸之は寧朔将軍・尋陽郡太守となり、軍を率いて虎檻に拠った。前鋒都督の殷孝祖が戦死すると、攸之は前鋒の諸隊を主導するようになった。赭圻城外で反乱軍を撃破し、姥山まで追撃し、水軍を分遣して反乱側の水軍を駆逐し、胡白二城を陥落させた。まもなく仮節・輔国将軍・督前鋒諸軍事となった。反乱軍は楊公賛を派遣して攸之を誘ったが、攸之は楊公賛を斬って、封書を明帝のもとに届けた。まもなく赭圻を陥落させた。5月、使持節・督雍梁南北秦四州[[郢州]]之竟陵諸軍事・冠軍将軍・寧蛮校尉・[[雍州]][[刺史]]に任じられた。攸之は諸将を率いて濃湖を攻撃した。銭渓が陥落したとの情報を反乱軍の[[袁顗]]が流したため、士心は動揺したが、攸之は一喝してこれを鎮めた。銭渓では明帝側の軍が反乱軍に大勝しており、攸之は銭渓から送られた[[劉胡]]の兵士の耳や鼻を袁顗に示して、反乱軍の士気を落とさせた。攸之は攻勢を強めて反乱軍を撃破し、濃湖を平定した。反乱軍が敗走すると多くの資財を遺棄したが、攸之と[[張興世]]の部隊は一切の略奪を行わなかったことで知られた。攸之はさらに尋陽に進軍して陥落させた。9月、臨郢州諸軍事・前将軍・郢州刺史に転じた。赴任しないうちに、10月に中領軍となり、貞陽県公に封じられた。