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「当世畸人伝」の記述を元にさまざまに補足、追加。
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[[京都府|京都]]の[[大日本武徳会武道専門学校 (旧制)|大日本武徳会武道専門学校]]に進み、卒業後、同校の[[助教]]となる。また、[[植芝盛平]]に[[合気道]]を学ぶ。
 
[[1936年]](昭和11年)、福岡市で4月11日に開催された第1回全日本東西対抗柔道大会に出場。[[早稲田大]]の[[永光伝]]をはじめ計3人を破る。その後、5月31日に[[宮内省]]の皇宮警察が主催した柔道五段選抜試合で[[木村政彦]]を破る。
この試合は朝日新聞の6月1日運動面に記録が残っており、阿部、木村、ら5人が出場し、総当たり戦で阿部が4勝したという。木村の師匠・[[牛島辰熊]]が「木村は東京へ来てから、誰にもほんとには負けたことはなかったですけど、ただいっぺん済寧館(宮内庁の武道場)で武専の阿部と試合したときだけはですね、阿部に完全にあつかわれて投げられたとです」と後日回想している。