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阿部 謙四郎(あべ けんしろう、1914年大正3年)12月 - 1986年昭和61年)12月1日)は、日本柔道家。柔道7段(1960年代末に8段を授与されたとする情報もある)、合気道6段、剣道6段。

目次

概要編集

日本では戦前の著名な柔道家として知られる。戦後は日本の柔道界と対立して渡英する。

イギリスではKenshiro Abbeの名で、1960年代のイギリスに柔道・合気道・剣道などを紹介した人物として知られる。1960年代から1990年代まで活動したBritish Judo Councilの設立者である。阿部の提唱したKyushindo理論に基づいて武道を教える道場が現在も多くある。

生涯編集

生い立ち編集

父阿部利蔵、母コトの四男として徳島県名西郡浦庄村字上浦に生まれる。旧制麻植中学校(現徳島県立川島高等学校)に3年生で編入し、柔道部に入部。5年生で三段に昇段した。京都大日本武徳会武道専門学校に進み、卒業後、同校の助教となった。1936年11月には柔道教士号を拝受。またこの頃、植芝盛平合気道も学んだ。

木村政彦を破る編集

1936年(昭和11年)4月11日、福岡市で開催された第1回全日本東西対抗柔道大会(東西両軍32人ずつの抜き試合)に出場。早稲田大学永光伝三船門下の堀野忠文、明治大学出身の西田東生の3人を抜き、4人目の明治大学姿節雄に抑え込みで敗れている。同年5月31日、宮内省皇宮警察が主催した柔道五段選抜試合で木村政彦を破った。この試合は朝日新聞の6月1日運動面に記録が残っており、阿部、木村ら5人が出場し、総当たり戦で阿部が4勝したという。木村の師匠・牛島辰熊が「木村は東京へ来てから、誰にもほんとには負けたことはなかったですけど、ただいっぺん済寧館で武専の阿部と試合したときだけはですね、阿部に完全にあつかわれて投げられたとです」と後日回想している。

軍隊生活編集

1937年(昭和12年)、陸軍歩兵第43連隊徴兵される。1941年(昭和16年)に除隊したが、すぐにかつての上官に呼び戻され、中尉として終戦まで軍に勤務。柔道選手としての最盛期を軍隊生活に費やした。阿部は晩年、「私の生涯は昭和12年6月に、現役で入隊したあのときまでで実は終わっていた」と語った。

大日本武徳会再建運動編集

1946年(昭和21年)、大日本武徳会占領軍指令により解散し、総裁の梨本宮守正王戦犯として逮捕された。阿部はこれに対し、釈放嘆願の署名活動を行なった。

その後は京都市警察の柔道師範を務めたが、大日本武徳会解散後柔道界を独占するようになった講道館への批判を繰り返し、七段を書留小包で講道館に返上。大日本武徳会の再建を唱え、日本の柔道界から孤立していった。

1955年(昭和30年)、欧州武徳会を作ると宣言してイギリスへ渡る。International Budo Councilを設立しロンドンヒリンドン区に道場を構える。

1958年(昭和33年)、 British Judo Council、British Aikido Council、British Karate Council、British Kendo Council、British Kyudo Councilなどの組織を設立。日本から武道家を招くなど、イギリスへの武道の普及に努める。イギリスを中心として欧州中を積極的に活動する。

1964年(昭和39年)、東京オリンピックに合わせて一時帰国する。植芝盛平とも再会。

1968年(昭和43年)12月、京都旧武徳殿に「求心道」と称する道場の看板を勝手に掲げ、入門者を募集した。しかし入門者は一人も来なかった。

1969年(昭和44年)、ふたたびイギリスに渡る。しかし阿部の不在中に組織は崩壊していた。失意の中日本に帰り、二度とイギリスには渡らなかった。

晩年編集

晩年は埼玉県秩父市老人ホームで暮らした。1985年(昭和60年)、作家・白崎秀雄が死の前年の阿部にインタビューし、その生涯を『当世畸人伝』という本に残した。同書によると木村政彦からの勝利にも「あのとき私はチャンスにめぐまれたんです」「宙に舞わせたの、あつかったというのは大げさです」と謙虚に語ったという。

1986年(昭和61年)、脳溢血で入院し12月1日に死去。郷里徳島の阿部家墓地に葬られた。戒名は聖徳院四海求心貫通大居士。

参考文献編集