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'''バビロン'''は[[メソポタミア]]地方の古代[[都市]]。市域は[[バグダード]]の南方約90kmの地点に[[ユーフラテス川]]をまたいで広がる。語義は[[アッカド語]]の{{翻字併記|akk|{{cuneiform|𒆍𒀭𒊏}}|Bāb-ilim|N|区=、}}(神の門)に由来し、[[マルドゥク]]を守護神とした。[[ウル]]第3王朝崩壊後の[[イシン]]・[[ラルサ]]時代の群雄割拠をこの都市に開かれたバビロン第1王朝第6代の王[[ハンムラビ]]が制して以後、メソポタミア下流域の重要都市として浮上した。これ以後のメソポタミア下流域、すなわち[[シュメール]]と[[アッカド]]の地を、[[ギリシャ語]]で「バビロンの地」を意味する[[バビロニア]]の地名で呼ぶ
 
==歴史 呼称 ==
語義は[[アッカド語]]の{{翻字併記|akk|{{cuneiform|[[:wikt:𒆍|𒆍]][[:wikt:𒀭|𒀭]][[:wikt:𒊏|𒊏]]}}|Bāb-ilim|N|区=、}}(神の門)に由来し、[[マルドゥク]]を守護神とした。[[ウル]]第3王朝崩壊後の[[イシン]]・[[ラルサ]]時代の群雄割拠をこの都市に開かれたバビロン第1王朝第6代の王[[ハンムラビ]]が制して以後、メソポタミア下流域の重要都市として浮上した。これ以後のメソポタミア下流域、すなわち[[シュメール]]と[[アッカド]]の地を、[[ギリシャ語]]で「バビロンの地」を意味する[[バビロニア]]の地名で呼ぶ。
 
== 歴史 ==
[[File:Fotothek df tg 0007295 Theosophie ^ Architektur.jpg|thumb|right|250px|17世紀のヨーロッパ人が描いたバビロン想像図]]
[[画像:Pergamon Museum Berlin 2007110.jpg|thumb|right|upright=1.2|イシュタル門とその城壁]]
都市バビロンの記録は前3千年紀末に登場する。
=== バビロン第1王朝 ===
ここに[[アムル人]]が[[バビロニア#バビロン第1王朝|バビロン第1王朝]]を建設し、前18世紀に第6代の王ハンムラビがメソポタミアを統一した。
[[Image:Ihstar Gate RB.JPG|thumb|left|復元された[[イシュタル門]]]]
 
=== カッシート朝・アッシリア帝国・新バビロニア王国・アケメネス朝ペルシア帝国 ===
その後、[[カッシート]]や[[アッシリア|アッシリア帝国]]などの支配を経るが、一貫してメソポタミア地方の中心であった。貿易の商工業の中心であり、物資集積場であった。紀元前600年代の[[新バビロニア|新バビロニア王国]]時代になって、その首都となるとイシュタル門や、今でも謎を残す[[バビロンの空中庭園|空中庭園]]などの建造物が作られ、[[オリエント]]有数の大都会として栄えた。しかし、新バビロニアが[[アケメネス朝]]ペルシア帝国に滅ぼされ、ペルシャの一都市となってからはその重要性が低下した。
 
=== マケドニア王国・セレウコス朝 ===
その後、ペルシア帝国を滅ぼした[[アレクサンドロス3世]](大王)がここを[[マケドニア王国]]の王都としたが、[[紀元前323年]]のバビロンでの彼の死に伴って[[バビロン会議]]が開催され、彼の遺将たち([[ディアドコイ]])によって権力と所領の分割協定が結ばれた。しかし、やがて[[ディアドコイ戦争]]が勃発し、紆余曲折を経てディアドコイの一人だった[[セレウコス1世]]がバビロンとアジアの大部分の支配者となり、[[紀元前312年]]に[[セレウコス朝]]を開いた。しかし、幾人かの王の中興があったものの彼の時代をピークにセレウコス王朝は次第に領土を喪失していった。
 
=== パルティア王国 ===
[[紀元前130年]]代にバビロンを含むバビロニアを[[パルティア王国]]に奪われた。バビロンはその間、取るに足らぬ地方都市として衰退を続け度重なる洪水などによって破壊され、やがて肥沃で緑あふれる土地だったメソポタミア平原が砂漠化したように大都市の面影をとどめない廃墟となってしまった。
 
=== 発掘 ===
[[File:Babylon ausgrabungen.jpg|thumb|right|300px|発掘されたバビロンの廃墟の遺跡]]
その後は、遺跡は砂漠に埋もれバビロンは旧約聖書や古代ギリシャの著作家たちが伝える以上のことは不明だったが、1811年から1812年にかけて、および1827年の{{仮リンク|クローディアス・リッチ|en|Claudius James Rich|}}による発掘<ref>Claudius J. Rich, Memoirs on the Ruins of Babylon, 1815</ref><ref>Claudius J. Rich, Second memoir on Babylon; containing an inquiry into the correspondence between the ancient descriptions of Babylon, and the remains still visible on the site, 1818</ref>がきっかけとなって、1827年のロバート・ミグナン<ref>[http://books.google.com/books?id=HkAGAAAAQAAJ Google Books Search], Robert Mignan, Travels in Chaldæa, Including a Journey from Bussorah to Bagdad, Hillah, and Babylon, Performed on Foot in 1827, H. Colburn and R. Bentley, 1829 ISBN 1402160135</ref>、1849年の{{仮リンク|ウィリアム・ロフタス|en|William Loftus}}<ref>[http://books.google.com/books?id=4ZiBAAAAIAAJ Google Books Search], William K. Loftus, Travels and Researches in Chaldaea and Susiana, Travels and Researches in Chaldaea and Susiana: With an Account of Excavations at Warka, the "Erech" of Nimrod, and Shush, "Shushan the Palace" of Esther, in 1849–52, Robert Carter & Brothers, 1857</ref><ref>[http://books.google.com/books?id=4ZiBAAAAIAAJ Google Books Search], William K. Loftus, Travels and Researches in Chaldaea and Susiana, Travels and Researches in Chaldaea and Susiana: With an Account of Excavations at Warka, the "Erech" of Nimrod, and Shush, "Shushan the Palace" of Esther, in 1849–52, Robert Carter & Brothers, 1857</ref>らによって解明が進められた。その後、現在にいたるまで研究が続けられている。
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== ユダヤ教・キリスト教における伝承と位置づけ ==
[[旧約聖書]][[創世記]]では'''バベル'''と表記され、[[バベルの塔]]の伝承にて混乱(バラル)を語源とすると伝える。創世記10章第2節によると、[[ノア (聖書)|ノア]]の子[[ハム (聖書)|ハム]]の子孫である地上で最初の勇士[[ニムロド]](ニムロデ)の王国の主な町が、シンアルの地にあったバベル、[[ウルク]]、[[アッカド]]であったという。この直後の創世記11章がバベルの塔の伝承であり、ここで東方からシンアルの地へ移住した人々による都市バベル及びバベルの塔の建設が述べられているため、この建設事業をニムロドに帰する[[神学]]解釈がある。
 
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* 『火星の挽歌』(タイム・オデッセイ3)''FIRSTBORN'' (2008年(邦訳は2011年)続編) ISBN 4152092599
*『[[イントレランス]]』
== 脚注 ==
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