「パンク・ロック」の版間の差分

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'''パンク・ロック''' (Punk Rock) は、[[1970年代]]中頃に生まれた[[ロック (音楽)|ロック]]のスタイルの一つ。'''パンク'''と略称されることが多い。[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の[[ニューヨーク]]の[[ボヘミアン]]的なロック・シーンに産声を上げ、1976年に[[イギリス]]の[[ロンドン]]で[[セックス・ピストルズ]]がデビュー。その後英国、イギリスに同傾向のバンドが続々と登場しロックの一時代を築いた。はじめ当初は反体制的、または[[左翼]]的なメッセージを歌うバンドが多かったが、次第に政治的な色彩は弱まっていった。パンクの音楽性の一部は[[ニュー・ウェイヴ (音楽)|ニュー・ウェイヴ]]に引き継がれた。
 
日本のパンクバンドについては、[[日本のパンク・ロック]]の項を参照。
== 経緯 ==
=== 時代背景 ===
もともと元々、若者のための音楽として1950年代に生まれたロックは、1970年代半ばになると、まるで古典芸術のようにティーンエイジャーたちが演奏を模倣できないほど高度な演奏技術を要するようになっていた。パンクは、このような状況への反発から生まれたといえる。
 
=== 早すぎた終息 ===
1977年のロンドン・パンク・ムーブメントは短期間で終息し、入れ代わるように[[ポストパンク]]/[[ニュー・ウェイヴ (音楽)|ニュー・ウェイヴ]]が台頭した。この中で、オリジナル・パンクの根底にあった、肉体性の否定、無機質でユニ・セックスな性格、前衛性・実験精神などは、[[スロッビング・グリッスル]]、[[ディス・ヒート]]、[[ワイヤー (バンド)|ワイヤー]]らが引き継いだ。一方、これらに反発するように台頭した[[エクスプロイテッド]]、[[GBH]]、[[ブリッツ]]、[[コックニー・リジェクツ]]といったネオ・パンク(oi!)やハードコア・パンク勢もアンダーグラウンド的に人気を集めた。[[モヒカン刈り]]や[[ジャンパー (衣服)|ジャンパー]]といった、のちのパンク・ロックのファッション的なイメージは後者によって作られた。
 
=== 後継者たち ===
米国アメリカでは、ハードコア・パンク・バンドの[[バッド・ブレインズ]]、[[マイナー・スレット]]、[[ダグ・ナスティ]]らが[[ワイヤー (バンド)|ワイヤー]]の曲を盛んにカバーした。こうした背景から、後にハードコア・パンクの聖地と呼ばれたワシントンDCでは、ハードコア・パンクの暴力性を否定するポスト・ハードコアが生まれた(レボリューション・サマー)。これが全米に広がり、1990年代のオルタナティヴ・ロックのプロト・タイプとなった。[[サウンドガーデン]]、[[ダイナソーJr]]、[[マッドハニー]]、[[フー・ファイターズ]]、[[ロリンズ・バンド]]、[[ジーザス・リザード]]らがその代表的なバンドである。
 
== 音楽的特徴 ==
=== ニューヨーク・パンクの誕生 ===
[[画像:Iggy pop davis b&w 1.jpg|thumb|right|130px|パンクのゴッドファーザー、[[イギー・ポップ]] ]]
[[ニューヨーク・パンク]]は、[[1960年代]]後半にアメリカでアンダーグラウンド的に人気を得ていた[[MC5]]、[[ヴェルヴェット・アンダーグラウンド]]、[[イギー・ポップ]]&[[ザ・ストゥージズ]]、[[ニューヨーク・ドールズ]]などに影響を受けて生まれた。ただし、当時はニューヨークで活動するアンダーグラウンド・ロック・バンドが十把一絡げに[[ニューヨーク・パンク]]と呼ばれていたきらいがある。後世への音楽的影響云々で判断すれば、[[ラモーンズ]]、[[テレヴィジョン_(バンド)|テレヴィジョン]]、[[ジョニー・サンダース]]&[[ハートブレイカーズ]]、[[パティ・スミス]]、リチャード・ヘル&ヴォイドイズ、ディクテイターズらが厳密な意味でのオリジナル・パンクと呼べるだろう。しかしかれらはその音楽的な影響の強さにも関わらず、世界的な商業的成功を得ることは出来なかった。ポップ色の強い[[ブロンディ (バンド)|ブロンディ]]、ワールドミュージックに傾倒した[[トーキング・ヘッズ]]など、パンクから派生したいくつかの[[ニュー・ウェイヴ (音楽)|ニュー・ウェイヴ]]・バンドが、それなりの商業的成功をおさめたにとどまる。
 
=== ロンドン・パンク興隆 ===
このニューヨークでのアンダーグラウンドの動きに注目したのは、大西洋を隔てたイギリスである。ラモーンズのロンドン公演などを機に、ロンドンを中心にニューヨーク・パンクを模倣したバンドが多数結成されるようになった。ロンドン・パンクの特徴としては、初期の[[ロックンロール]]が持っていた攻撃性と反社会性、スリーコード中心の曲調が挙げられる。また、少し前に流行っていた[[パブロック]]といわれる音楽も、ロンドン・パンクに大きな影響を与えた。破れた細い[[ジーンズ]]や古Tシャツ、革ジャン、よれよれのジャケットなどの[[ファッション]]も若者の間で流行した。初期に人気があったのは[[ストラングラーズ]]とセックス・ピストルズであるが、アメリカ進出は成功しなかった。むしろせず、後発といえるザ・クラッシュが、アメリカでそれなりの成功を収めた。
 
ストラングラーズは、[[1974年]]に[[ロンドン]]で結成された。当時の流行から外れた短い髪、細いズボン、短いギターソロ、攻撃的な歌詞と音楽。彼らのサウンドは、パンクもしくは[[ニュー・ウェイヴ (音楽)|ニュー・ウェイヴ]]と呼ばれ、次第に人気が出てきた。ストラングラーズは、アイスクリーム販売用のバンでイギリス国内を移動してライヴを行った。やがて反体制的なパンクバンドとして右翼団体の標的となるなど問題も抱えつつ、各アルバムをイギリスのトップ5に送り込むようになる。1970年代後半には、イギリスにおいてセックス・ピストルズやクラッシュ、ダムドと並んで人気パンクバンドであった。
 
セックス・ピストルズは、ロンドンで「SEX」という名前の[[ブティック]]を経営していた[[マルコム・マクラレン]]<ref>共同経営者は、美術大学時代の同級生で当時私的なパートナーでもあった[[ヴィヴィアン・ウエストウッド]]。ニューヨーク・ドールズのライブ・ツアーで自ら売り込んでマネージャーを務めた経験がある。店ははじめは普通のブティックだったが、後にSM専門のゴムや革の服を売る店に衣替えした。マルコムは、後に[[バウ・ワウ・ワウ]]、[[アダム・アンド・ジ・アンツ]]のマネージャーも務め、さらには自分自身もミュージシャンとしてデビューしている。</ref>が、店にたむろしていた若者たちが作ったアマチュア・バンドに介入し、[[1975年]]にライブデビューさせた。破れたシャツ、安全ピン、逆立てた髪という奇抜なファッションは、マルコムの助言によるものだと言われている<ref>これらのファッションは、元々テレヴィジョンの[[リチャード・ヘル]]がオリジナルである。</ref>。メンバーの[[グレン・マトロック]]と[[ジョニー・ロットン]]が作ったオリジナル曲の数々は、[[アナーキズム]]を煽動したり、[[エリザベス2世_(イギリス女王)|エリザベス女王]]をおちょくるなど、当時の保守的なイギリスにおいては考えられないほどタブーを犯すものであり、そのことがマスコミの好餌となり、スキャンダリスティックに取り上げられた。ライブでは客に唾を吐きかけ、テレビに出演すれば必ず司会者とトラブルを起こすと言われ、イギリス中の話題となり、パンクがメジャーに進出するきっかけを作った。それまで、大学のキャンパスでしか使われなかった、アナーキーという[[フランス語]]源の英語をポップ音楽の中に定着させたのは、彼らである。
 
1976年、[[ダムド]]がデビュー。ロンドン・パンクで最初にシングル及びアルバムをリリースした。ほかのパンク・バンドに比べて政治色が薄く、圧倒的な演奏のスピードが特徴で、アルバム『[[地獄に堕ちた野郎ども]]』が大ヒットした。
 
[[画像:Clash 21051980 12 800.jpg|thumb|200px|1980年の[[ザ・クラッシュ]]]]
ザ・クラッシュは[[1976年]]に[[ロンドン]]で結成され、翌[[1977年]]『[[白い暴動 (アルバム)|白い暴動]]』でデビュー。1st、2nd2作目のアルバムは直球なパンク色の強いものであったが、パンクと通じる精神性をもつ[[レゲエ]]、[[カリプソ (音楽)|カリプソ]]、[[ロカビリー]]への接近を試みた3rd、[[1979年]]のアルバム『[[ロンドン・コーリング]]』([[1979年]])を発表、しだい次第に普遍的なロックバンドへと成長していく。シングル「[[ロック・ザ・カスバ]]」のヒットによってアメリカでも人気を得、スタジアム規模のライブツアーを何度か行った。
 
他に、[[ザ・ジャム]]が[[ネオモッズ]]・ムーブメントを巻き起こし、UKチャートでNo.1ヒットを4曲も出すなど、1982年の絶頂期に解散するまで人気バンドとして君臨した。ベテランのミュージシャン達によって結成された[[ポリス (バンド)|ポリス]]でさえ、デビューアルバムはパンクであった。また、[[スペシャルズ]]や[[マッドネス]]などの[[2トーン]]系[[スカ]]バンドが人気を博した。
 
ブームの火付役であったセックス・ピストルズは、アメリカ・ツアーの途中で空中分解し、ジョニー・ロットンの脱退により、スタジリジナル・アルバム1を残しただけで実質解散。ジョニー・ロットン改め[[ジョン・ライドン]]は、新たにPIL([[パブリック・イメージ・リミテッド]])を結成。[[カン (バンド)|カン]]や[[キャプテン・ビーフハート]]などの前衛ロックや、[[レゲエ]]の先進的な[[ミキシング]]方法である[[ダブ]]などの影響を採り入れた音楽は話題となり、パンクから[[ニュー・ウェイヴ (音楽)|ニュー・ウェイヴ]]へという時代の変化を印象づけた。
 
イギリスでは、失業者の増加と言う社会問題が下地となって、若者たちの不満、怒り、反抗、暴力性などを掬い上げたパンクが大きな社会現象となった。[[ジェネレーションX (バンド)|ジェネレーションX]]([[ビリー・アイドル]]が在籍)などのポップなバンドも次々に生まれ、盛り上がった。ファッション、芸術、文学にまでその波は広がり、セックス・ピストルズ以上に髪を逆立たせ、服を破いたスタイルのロンドン・[[パンク・ファッション]]は世界中で知られた。[[1980年代]]のロンドンでは観光客相手に、パンク・ファッションで街頭に立ち、お金をもらって写真を撮らせるビジネスもあった(ちなみに、日本ではこういった行為は違法行為である)。
 
=== 1980年代のパンク・ロック ===
[[1978年]]セックス・ピストルズ解散により、パンクは沈静化を迎えた。しかし[[1980年代]]、ハードコア(極端)なネオ・パン[[ラス (バンドが次々と生まれる。いわゆる「[[ハードコア・パン)|ラス]]・ムーブメント」でありをきっかけに、[[ディスチャージ (バンド)|ディスチャージ]]、[[G.B.H. (バンド)|G.B.H.]]、[[エクスプロイテッド]]といったネオ・パンクバンドが次々に登場、いわゆる「[[ハードコア・パンク|ハードコア(極端)・パンク]]・ムーブメント」で、シーンは再活性化する。このきっかけとなったのは[[クラス (バンド)|クラス]]とされる。特にクラスは、メンバーが共同生活し、半自給自足の生活を送るなど、徹底的な反システム、[[アナーキズム]]を貫き、パンク・ロックにより過激な主張を持ち込んだ。
 
また、ハードコアとは別に、イギリスではストリートとより密接に結びついたパンク・リヴァイヴァル/ネオ・パンクの動き[[オイ!]]が勃興する。[[シャム69]]や[[コックニー・リジェクツ]]などを中心とするこのムーブメントは、音楽的にはロンドン・パンクのポップさ、キャッチーさを継承しつつも、オリジナル・パンクにあったユニ・セックス的な側面は影を潜め、男らしさを打ち出すバンドが多かった。これは、当時のポップミュージックの中心だった[[ニュー・ウェイヴ (音楽)|ニュー・ウェイヴ]]に反目する意味合いがあった。
 
アメリカにおいても、1970年代後半にニューヨーク・パンクやロンドン・パンクに影響を受けたバンドが次々と誕生、[[ブラック・フラッグ]]や[[バッド・ブレインズ]]といった有力バンドにより各地でハードコア・シーンが生まれた。局地的・アンダーグラウンド・レベルな現象の全貌を明らかにするのは難しいが、西海岸のファンジンの中には長期にわたって情報センターの役割を果たしたものもある。1977年創刊の[[ロサンゼルス]]のフリップサイド誌は、ガレージやポスト・パンク等雑多だった時代からのファンジンである。[[バークリー]]のカレッジラジオ局のパンク番組マキシマム・ロックンロールファンジンを創刊する1982年には全米的な規模でハードコアリポートが掲載されるようになった。マクシマム・ロックンロール 2号のニューヨーク発リポートではハードコア・バンドだった[[ビースティー・ボーイズ]]の自主制作盤発売が伝えられている。とはいえ、同誌においても誌面はハードコア一本槍だっわけではなく、レビューの半数を占めていたのは、カレッジロックやガレージ的なバンドであった。一般的なイメージとは裏腹に、[[ハスカー・ドゥ]]やバッド・ブレインズのように大手レーベルと契約するバンドが増え、また[[SST]]や[[ディスコード・レコード]]のような個人レーベルがディストリビューションを拡大し、[[クロスオーヴァー]]やスピードコア、[[ユースクルー]]・ハードコアが台頭する80年代半ばから後半にかけてがハードコアの規模的なピークであった。
 
[[スラッシュメタル]]からのクロスオーバー、ハードコアバンドによるメタルという意味でのクロスオーバー(・スラッシュ)は、D.R.I.(Dirty Rotten Imbeciles)の同名アルバム(1987年)以降一般化したとみられる。東海岸では、[[アグノスティック・フロント]]や[[クロ・マグス]]らに代表されるハードコアのメタル化やクロスオーバー、それらに反発する[[ユース・オブ・トゥディ]]らストレート・エッジの復古的な盛り上がりが、ニューヨーク・ハードコアという新たなブランドを作り出した。
 
=== グランジ・ブーム ===
アメリカにおけるハードコア・ムーブメントはアンダーグラウンドな動きに留まったが、その過程において各地のバンド、インディ・レーベルを結ぶネットワークができあ出来上がる。そのような状況下、[[サウンドガーデン]]や[[グリーン・リヴァー]]、[[マッドハニー]]といったバンドが、[[シアトル]]のインディ・レーベル[[サブ・ポップ]]より次々とデビューし、シアトルのアンダーグラウンドシーンは盛り上がりを見せる。そして、1980年代初めからニューヨークのアンダーグラウンドシーンで活躍していた [[ソニック・ユース]]が、[[1990年]]にメジャー・レーベルの[[ゲフィン・レコード]]よりデビュー、翌[[1991年]]には[[ニルヴァーナ (バンド)|ニルヴァーナ]]が『[[ネヴァーマインド]]』でメジャーデビューし、全世界で13,000万枚を売り上げる大ヒットを記録する。その後[[パール・ジャム]]などが次々とメジャーデビューし、[[グランジ]]・ブームが訪れる。
 
しかしながら、[[1994年]]にニルヴァーナのリーダーであった[[カート・コバーン]]が自殺すると、グランジが[[オルタナティヴ・ロック]]に呑み込まれる形で、グランジ・ブームは急速に終息を迎える。
[[1980年代]]後半に[[バッド・レリジョン]]が、ハードコア的なサウンドをよりメロディックにスピーディーにさせたスタイルを確立。[[NOFX]]や[[ペニーワイズ]]、イギリス郊外系パンク・ファッションを継いだ[[ランシド]]などがその音楽性を発展させ、そのサウンドは[[ポップ・パンク]]や[[メロディック・ハードコア]]と呼ばれるようになる。
 
そして[[1994年]]、[[グリーン・デイ]]のメジャーデビュー、[[オフスプリング]]の3rdアルバム『スマッシュ』の大ヒットにより、ポップ・パンク、メロコアが爆発的なブームを巻き起こす。
 
=== ポスト・ハードコアの時代 ===
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