「フーゴ・フォン・ホーフマンスタール」の版間の差分

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[[1874年]]、ウィーンの富裕な商家の家系に生まれる。もともとユダヤ系の家系であったが、祖父はイタリア人の女性と、父はドイツの農家の女性と結婚しており、フーゴ自身にはユダヤ、イタリア、ドイツの血が流れている。幼年期から家庭教師がついてギリシア・ラテン文学を始め、中世、ルネサンス文学にいたるヨーロッパの古典文学を学んだ。ギムナジウム時代から詩作を始め、早くも16歳の頃より'''Loris'''、'''Theophil Morren'''などの筆名を用いて戯曲や随筆を発表し文壇を驚かせた。[[1891年]]、[[芸術のための芸術|芸術至上主義]]を掲げる5歳年上の[[シュテファン・ゲオルゲ]]と知り合い多大な影響を受け、ゲオルゲの主宰する『芸術草紙』の寄稿者となった。[[1892年]]、[[ウィーン大学]]に入学し、法律を学ぶ。
 
初期には[[象徴主義]]的な詩も発表していたが、特に『[[痴人と死]]』などの世紀末的な雰囲気をたたえた韻文劇で名声を得た。27歳のときに、世紀転換点における芸術家の精神的な危機を架空の手紙の形で記した『[[チャンドス卿の手紙]]』を発表、これが彼自身の転機ともなり、以降は[[ソフォクレス]]や[[エウリピデス]]などの古典劇に近代的解釈を加えて優れた翻案・改作を作り出した。またこの時期に[[リヒャルト・シュトラウス]]と組んで『[[薔薇の騎士]]』などのオペラや喜劇などを執筆している。
 
[[第1次世界大戦]]の後[[オーストリア=ハンガリー帝国]]崩壊に大きな精神的ショックを受け、晩年は過去の文化や伝統に結びついた文化評論や書物の編集に励んだ。[[1929年]]、卒中により死去。息子フランツが拳銃自殺をしたわずか2日後のことであった。