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[[File:Атласная колода экстра дама пики.jpg|thumb|サテン金藤紙を使ったトランプにみるスペードの女王(アドルフ・ヨシフォヴィッチ・シャルレマン画 1850年)]]
{{Portal|文学}}
『'''スペードの女王'''』([[ロシア語]]:''{{lang|ru|Пиковая дама}}'')は、[[ロシア]]の国民的作家[[アレクサンドル・プーシキン]]の[[短編小説]]。[[1834年]]に雑誌「読書文庫」に発表され、すぐさま大変な人気を博した{{#tag:ref|執筆は1833年の終わりごろとされる<ref>笠間 1982年 pp..6-7</ref>|group="n"}}。『[[大尉の娘]]』とも比せられるプーシキンの代表的な[[散文]]作品であり{{#tag:ref|しかし発表当時は新奇なストーリーばかりが注目され、文学的な達成とみなされるまでには時間を要した<ref>森田 2007年 p.225</ref>|group="n"}}、引き締まった文体と[[E.T.A.ホフマン|ホフマン]]を思わせる幻想的な雰囲気に満ちた格調高い名作<ref>神西清「プーシキンと作品」『スペードの女王・ベールキン物語』岩波文庫、1967年 p.288</ref>。また1830年前後の<ref name="笠間1"/>幻想と現実とが交差する都市[[サンクトペテルブルク|ペテルブルク]]を舞台にした「ペテルブルクもの」に連なり<ref>神西清「短篇6種の発生について」『スペードの女王・ベールキン物語』岩波文庫、1967年 p.247</ref>、長編小説『[[未成年 (小説)|未成年]]』に〔スペードの女王の主人公〕「ゲルマンは巨大な人物だ。異常な、まったくペテルブルグ的な典型だ―ペテルブルグ時代の典型だ」という言葉がでてくるが、[[フョードル・ドストエフスキー|ドストエフスキー]]もこの作品を激賞したことで有名である<ref>神西 1967年 p.256</ref>。
 
その平民出身の主人公ゲルマンは、大金を求めて人知の限りを尽くすが、愛と友情とを知らぬまま[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン]]のごとき野望を持てあまし、二つの固着観念のせめぎあいのなかで([[ヴィクトル・ヴィノグラードフ|ヴィノグラードフ]]<ref>クセニヤ 2010年 p.114</ref>)ついには発狂して全てを失ってしまう。神西清はこの作品にプーシキン自身の内面とも通じ合う「悲劇」を見いだしている<ref>神西 1967年 p.248</ref>{{#tag:ref|最後には幸せな結婚をするリザヴェータを中心に滑稽みもないではない。たとえば彼女は少女じみた熱をこめて手紙を待つ。これは将来の伴侶を見つけられるかどうか、という一種の「賭け」であり、ゲルマンの悲壮な賭けと対照をみせる。そして待ちわびた手紙を破りすてる場面は、小説中で最も滑稽な瞬間だといえるだろう<ref>Debreczeny 1983, pp.216-217</ref>|group="n"}}。
 
[[1890年]]には本作を元に[[ピョートル・チャイコフスキー|チャイコフスキー]]が{{仮リンク|スペードの女王 (オペラ)|en|The Queen of Spades (opera)|label=同名のオペラ}}を作曲している。また[[1916年]]、[[1987年]]には映画化もされた。[[日本]]では[[神西清]]による訳で知られ、[[宝塚歌劇団によって舞台化された作品の一覧#スペードの女王|宝塚歌劇団]]でも2度の舞台化がされている。
 
== あらすじ ==
[[File:Пушкинская 74 Пушкин Дама граффити.JPG|thumb|300px|プーシキンとスペードの女王(建物に直接描かれている ハリコフ)]]
[[工兵]]士官であるゲルマンは、[[騎兵]]士官トムスキイの家で連夜開かれるカルタ勝負を熱心に見守りはするが、決して自分では金を賭けようとはしない。しかしトムスキイに言わせれば、ゲルマンよりも自分の祖母アンナ・フェドトブナ伯爵夫人が賭けをしないことのほうが奇妙なのだという。なんでも伯爵夫人はかつてカルタで散々に負けたのだが、ある人から必勝の手を教わり、失ったはずの大金を取り戻したことがあるのだ。さらに同じように大負けした青年を哀れに思い、その策を授けて勝たせてやったというのである。それを聞いたゲルマンは心を躍らせたが、同時に自分にとっての必勝の手は節度なのだと思い直す。
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ゲルマンは精神に変調をきたし、ほどなく精神病院に入れられた。何を聞かれても早口で「三<small>トロイカ</small>」「七<small>セミョルカ</small>」「一<small>トウズ</small>」、「三<small>トロイカ</small>」「七<small>セミョルカ</small>」「女王<small>ダーマ</small>」と呟くだけになったのだという。
 
== 解題 ==
=== 執筆と反響 ===
[[File:Pushkin Alexander, self portret, 1820s.jpg|thumb|left|180px|アレクサンドル・プーシキン(自画像)]]
{{quote box|width=33% |align=right|わたしの『スペードの女王』はすっかり流行りっ児だ。賭博者連中は三、七、一と張っている。宮中では、老伯爵夫人がN・P公爵夫人に似ているという評判だが、あの連中も腹を立ててはいないらしい|1834年4月7日の手紙<ref name="神西256">神西 1967年 p.256</ref>}}
『スペードの女王』の萌芽は、1819年に創作ノートに書き留められた『ナージニカ』に求められる<ref name="森田238">森田 2007年 p.238</ref>。その後1828年にゴリツィン公爵から「3枚のトランプ」の話を聞いたプーシキンは、構想段階であった『ナージニカ』とこの[[アネクドート]]をもとにした作品を肉付けしていった<ref name="森田238"/>。そして1833年8月、プーシキンは『プガチョフ叛乱史』を執筆するために、この[[プガチョフの乱|暴動]]が起こった土地であるオレンブルグなどをまわって資料を集め、その帰路でボロジノの村に逗留した<ref name="神西246">神西 1967年 p.246</ref>。しかしコレラが発生したために滞在の予定が伸びて、2ヶ月近く留まることになって時間が生まれる<ref name="森田226">森田 2007年 p.226</ref>。この時期に『プガチョフ叛乱史』や、やはり傑作である『[[青銅の騎士 (詩)|青銅の騎士]]』などとともに『スペードの女王』が書かれたのである<ref name="神西246"/>。そして「読書文庫」紙上で発表され、後に選集にもおさめられたが、原稿は散逸してしまった<ref name="森田226"/>。発表後すぐに人気を集め、プーシキンが手紙でそれを自賛するほどであった。当時こそ文学として真に評価されていたとはいいがたいが、すぐに[[ヴィッサリオン・ベリンスキー|ベリンスキー]]やドストエフスキー、フランスでは[[プロスペル・メリメ|メリメ]]や[[アンドレ・ジッド|ジイド]]といった人々に絶賛を受け{{#tag:ref|メリメは1849年に『スペードの女王』の仏訳を行っている。誤訳も少なくなかったが訳業としてはすぐれたもので、プーシキンというロシア人の名を借りたメリメ自身の作品と考えられるほどだった<ref>神西 1967年 pp.257-258</ref>|group="n"}}、現在ではプーシキンの、つまり[[ロシア文学]]における最高傑作の1つに数えられるようになった<ref>神西 1967年 pp.256-259</ref>。
=== 登場人物 ===
[[File:Nathalie Petrovna Golitsyn .jpg|thumb|伯爵夫人のモデルとされるナターリヤ・ゴリツィナ公爵夫人。賭博を好み、晩年は視力が衰えた彼女のため大きな書体のトランプが用意されていたという<ref name="davydov320">Davydov 1999, p.320</ref>。またトランプで負債を負った孫に勝ち札を教えて負けを取り戻させたエピソードも実際に伝わっている<ref name="davydov320"/>。美しい顔立ちからはほど遠く、むしろたいへんな醜婦だったともいわれる<ref name="笠間2"/>]]
[[file:Perrot View of the Smolny Convent 1841.jpg|thumb|1840年ごろのペテルブルク、スモーリヌイ修道院。ゴーゴリ、ドストエフスキー、ベールイなどの何人もの作家によってペテルブルクは幻想と現実の折り重なった都市として描かれ、無数の「ペテルブルクもの」を生み出してきた。]]
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トムスキイやリザヴェータのモデルを求める試みは成功をみていない。またプーシキンその人も賭博好きでありたばたび賭博を作中に登場させているが、ゲルマンのそれは単なる気晴らしではなく、「安楽と独立」をもたらす希望であった点は重要な対比である<ref>森田 2007年 p.242</ref>。ゲルマンにカルタで勝つチェカリンスキイのプロトタイプにはアゴーニ=ドガノフスキーという人物がいる。プーシキンはよくこの人物の家で賭博をし、カルタで数万ルーブリの借金まで負っている<ref>Debreczeny 1983, p.195</ref>。
 
=== 三、七、一 ===
{{quotation|『三』『七』『一』は夢にまで追い掛けて来て、まざまな形を現した。『三<small>トロイカ(トロイカ)</small>』は見事な大輪の花となって開き、『七<small>セミョルカ(セミョルカ)</small>』はゴチック式の門となって閉じた。その上『一<small>トゥズ(トゥズ)</small>』は女郎蜘蛛に化けた。|神西清訳『スペードの女王』岩波文庫、1967年 p.55}}
この作品におけるひと揃いの数字三、七、一はたいへん重要なモチーフであり、賭博の場面だけでなく小説全体を貫いている<ref>Debreczeny 1983, p.220</ref>。つまりトランプの数字としてだけはなく、登場人物の思考や時間、金銭、さらには数字に由来する動詞や音韻、図像として読み込まれてきた{{#tag:ref|一方でダヴィドフがいうように、『スペードの女王』にはいくつもの数が現れるため、それらの組み合わせからあらゆるものを引き出すことが可能であり、また三、七、一という順序には全く注意が払われていな<ref>Davydov 1999, p.311</ref>|group="n"}}。ネイサン・ローゼンは三、七、一という数字が持つ魔術的な意味に注目し、それらがこの小説における超自然的な力を生み出す源泉だとしている<ref>Rosen 1975, p.256</ref>。またこの数字の組み合わせの触発源として、グリンカの1828年の詩『トビアの結婚披露宴({{lang|ru|Брачный пир Товия}})』やカール・ホインの小説『オランダのユダ({{lang|de|Der holländische Jude}})』、賭けトランプの『[[ファロ (トランプ)|ファロ]]』などが考えられる<ref>Davydov 1999, pp.310-311</ref>。
 
=== 英雄ナポレオン ===
「横から見ればナポレオン」とトムスキイに評される<ref name="神西43">神西清訳『スペードの女王・ベールキン物語』岩波文庫、1967年 p.43</ref>『スペードの女王』の主人公ゲルマンにはその通り「ナポレオン主義」が見いだされてきた<ref name="森田227">森田 2007年 p.227</ref>。金と名誉とを求める平民出のゲルマンは、伯爵夫人の殺害や無垢なリザヴェータをただ利用することを躊躇しない。容貌だけでなく、この野心と「[[メフィストフェレス]]」<ref name="神西43"/>じみた悪魔性においてゲルマンはナポレオンのイメージが重ねられているといってよい<ref>森田 2007年 p.229</ref>。しかし彼はこのナポレオン主義によって破滅し、死の手前で「不条理な生」<ref>森田 2007年 p.230</ref>を生きなければならなくなるのである。<!--しかしナポレオンが英雄としての側面を持つように、ゲルマンもその意味で両義的な人物である。伯爵夫人の部屋が[[モンゴルフィエ兄弟|モンゴルフィエ]]の気球や[[フランツ・アントン・メスメル|メスメル]]の磁気といった「前世紀の」品々であふれている通り、この老婆は18世紀フランスの[[アンシャン・レジーム|旧体制]]を象徴する存在として描かれている<ref name="鳥山12">鳥山 2010年 p.12</ref>。ナポレオンがそれを打倒して英雄になったように、ゲルマンは非対称的に伯爵夫人を「見る」行為によって征服し、殺すことで英雄としてのナポレオン像にも比せられているのである<ref name="鳥山12"/>。だがゲルマンもまた幻想の伯爵夫人に「見つめられ」て一方的な支配権を失い、ナポレオンの没落と軌を一にするかのように、破滅へ向かうのである<ref>鳥山 2010年 p.14</ref>。-->
 
=== 謎めいた終局 ===
[[File:Queen of spades en.svg|thumb|180px|left|''もう一枚は年若な鉤鼻の美女で、打ち粉した髪を額ぎわ深く撫で上げ、薔薇の花を挿している。''{{#tag:ref|寝室に飾られた伯爵夫人の肖像画 ―神西清訳『スペードの女王』岩波文庫、1967年 p.35<br>方形の枠におさまった、薔薇をまとった若い女性。ここで伯爵夫人は明らかにスペードの女王の意匠と重ねられている<ref name="Davydov322"/>|group="n"}}]]
『スペードの女王』において真に謎めいているのは、亡霊が現れて予言をすることではなく、その予言を聞いたはずのゲルマンが『一』の代わりに『女王』を張ったことである<ref name="Davydov322">Davydov 1999, p.322</ref>。この不思議な現象を説明するためにいくつもの論文が書かれており、ゲルマンの負けを「純粋な偶然」や「見間違い」とする見方も存在してきた<ref name="Davydov322"/>。ダヴィドフは、伯爵夫人とスペードの女王の間の図像的な連関や、ジェンダーの混乱、伯爵夫人の夫(つまり『一』)への優位などを指摘し、こういった見方にも論拠があるとしている<ref>Davydov 1999, pp.323-324</ref>。ヴィノグラードフによる終局の解釈は有名であり、これは『女王』の出現を、ゲルマンの内面に抑圧された殺人への罪の意識の物象化とみなすものである<ref name="Davydov322"/>。いずれにせよ多くの研究者はこの謎めいたクライマックスを超自然的な力と現実的な力の融合によって説明しようとしている<ref>クセニヤ 2010年 p.115</ref>。
 
== オペラ ==
{{main|スペードの女王 (オペラ)}}
[[File:Tchaikovsky and the Figners 1890.jpg|thumb|チャイコフスキーと1890年の初演でそれぞれゲルマンとリーザ役で歌ったニコライ・フィグネルとメデア・フィグネル]]
この小説への評価と同様、オペラ化も最初に行ったのはロシア人でなくフランス人だった。1850年のパリで、[[ウジェーヌ・スクリーブ]]の台本、[[ジャック・アレヴィ]]の作曲による3幕物が[[オペラ=コミック座]]で上演されたが、これは失敗したといわれている{{#tag:ref|原因はアレヴィに求められた<ref>神西 1967年 p.259</ref>|group="n"}}。しかし1890年にチャイコフスキー作曲(モデスト・チャイコフスキー作詞)の3幕歌劇のオペラがペテルブルクで初演され、大成功をおさめる<ref name="神西259">神西 1967年 p.259</ref>。そもそもチャイコフスキーはオペラ化に対して積極的でなく、『スペードの女王』は「ぼくの心を動かさない」とまで手紙に書いていた<ref name="浅岡33">浅岡 2005年 p.33</ref>{{#tag:ref|だがプーシキンの言葉はあまりに完璧で、そこでは音楽は不要であると語ったというチャイコフスキーの友人の回想もある<ref name="浅岡34">浅岡 2005年 p.34</ref>|group="n"}}。だが1889年に、帝室劇場の支配人であるイワン・フセヴォロシュスキイに依頼されて、翌年1月にはフィレンツェで作曲にとりくんだ<ref name="浅岡33"/>。熱がこもっていたのは明らかで、わずか44日ほどで完成をみている<ref name="浅岡33"/>。その後もマーラーの指揮による1902年、ウィーンでの上演を皮切りに、ミラノ、ベルリンなどでも好評を博した<ref name="神西259"/>。ストーリーは原作と大きく異なり{{#tag:ref|例えば小説に登場しないゲルマンの恋敵が登場する<ref name="浅岡33"/>|group="n"}}、結末においては最後の札で『女王』を出して負けたゲルマンの前に伯爵夫人が亡霊となって現れ、ゲルマンは自らの運命をさとり死を選ぶ、といった内容だった<ref name="神西259"/>。大きな相違点はそれだけでなく、オペラの『スペードの女王』は「ペテルブルクもの」ではあっても、ゴーゴリやドストエフスキーの作品がそうであるように暗鬱な「楽屋裏の」街ではなく、女帝エカテリーナの時代の輝かしいペテルブルクなのである<ref name="浅岡4142">浅岡 2005年 pp.41-42</ref>。そこには同時代のロシアに絶望していたチャイコフスキー<ref>浅岡 2005年 p.36</ref>とプーシキンの確かな人間賛歌が響き合っている<ref>浅岡 2005年 p.42</ref>。
 
== ミュージカル ==
==日本語訳==
{{See|スペードの女王 (宝塚歌劇)}}
 
== 日本語訳 ==
*{{Cite book |title=スペードの女王・ベールキン物語 |author=アレクサンドル・プーシキン、神西清訳 |year=1967 |publisher=岩波文庫 |isbn=4003260422}}
*{{Cite book |title=スペードの女王 |author=アレクサンドル・プーシキン、[[岡本綺堂]]訳 |year=1987 |publisher=河出書房新社 |series=世界怪談名作集 03|isbn=4003260422}}-[http://www.aozora.gr.jp/cards/001088/card42305.html (青空文庫)]
*{{Cite book |title=悪魔のトランプ占い |author=アレクサンドル・プーシキン他、渡辺節子訳 |year=1986 |publisher=ポプラ社 |series=(ポプラ社文庫―怪奇・推理シリーズ) |isbn=4591022994}}
 
== 脚注 ==
<references group="n"/>
;出典
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*{{Cite journal |author=Maxim D. Shrayer |year=1992 |title=Rethinking Romantic Irony: Puškin, Byron, Schlegel and The Queen of Spades |url=http://www2.fwcds.org/Faculty/Faculty%20Resources%20Page/Boberg/Pushkin/Rethinking.pdf |journal=The Slavic and East European Journal |volume=36 |issue=4 |pages=397-414 |publisher=American Association of Teachers of Slavic and East European Languages }}
 
== 外部リンク ==
*{{Cite web |author=松岡正剛 |date=2001-08-09 |url=http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0353.html |title=アレクサンドル・プーシキン『スペ-ドの女王 ベールキン物語』 |publisher=松岡正剛の千夜千冊|accessdate=2012-04-29}}
*{{Cite web |url=http://www.pushkiniana.org/naps.html |title=the Pushkin Review |publisher=North American Pushkin Society|accessdate=2012-04-30}}