「木村庄之助 (32代)」の版間の差分

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[[北海道]][[網走市]]出身。本名は澤田郁也(さわだ いくや)。
 
後に「泉の親方」と呼ばれた名[[行司]][[木村庄之助_(22代)|22代木村庄之助]]に入門。兄弟子に[[1955年]]5月、木村郁也の名で[[初土俵庄之助_(28代)|28代木村庄之助]]が、同期生には[[木村庄之助 (30代)|30代庄之助]]、[[木村庄之助 (31代)|31代庄之助]]、[[木村庄之助_(33代)|33代庄之助]]がいる。30代庄之助は同部屋で同期である。[[1955年]]5月に木村郁也の名で[[初土俵]]。幕下格時代の[[1972年]]3月に木村咸喬(しげたか)に改名。以後[[三役]]格まで咸喬で通す。[[1973年]]1月に[[十両]]格に昇格。[[1988年]]1月に[[幕内]]格に昇格。[[1999年]][[三役]]格に昇格。[[2003年]]5月場所に[[立行司]]に昇格し、33代[[式守伊之助]]を襲名。伊之助在位は16場所。[[2006年]]1月場所に32代[[木村庄之助]]を襲名した。しかし、3月場所前に停年を迎えるため、庄之助としては在位1場所のみだった。しかし役員選挙権のある評議員資格があったために1月場所後も庄之助として在位。2006年2月5日の[[日本大相撲トーナメント]]で庄之助としての最後の裁きを行った後、[[2006年]][[2月12日]]に停年退職。庄之助在位1場所は、行司停年制実施後現在での最短記録である。本場所最後の一番は横綱朝青龍-[[大関]][[栃東大裕|栃東]](現[[玉ノ井]])
 
時間いっぱいでの立ち合い前は、'''「時間でぇすっ!手をついて」'''、ただし声は小さめ。立ち合い後は'''「はっきよーい!のこぉったっのこったっのこったのこった」'''と「のこった」を4回素早く繰り返すのが特徴であった。
幕下格時代に木村咸喬(しげたか)に改名。[[1973年]]1月に[[十両]]格に昇進。[[1988年]]1月[[幕内]]格。[[1999年]][[三役]]格に昇進。これは[[式守伊之助 (29代)|29代式守伊之助]]が前場所で[[手首]][[骨折]]で長期休場が予想されたことと、以前から29代伊之助の体調が優れなかったことを考慮して[[木村庄之助 (29代)|29代庄之助]]が[[日本相撲協会]]に咸喬の昇格を希望したことから実現した。この1月場所から29代伊之助が停年となる[[2000年]]7月場所までは三役格行司が定員より1名多い4人となった。
 
31代庄之助同様、やはり事務能力に長けており、兄弟子の[[木村庄之助 (28代)|28代木村庄之助]]は自身が停年退職後、「[[番付]]は書かなかったが咸喬時代から[[根岸流 (書風)|相撲字]]においてはかなりの[[能筆]]だった。当時の行司の中では彼が一番だろう」と認めている)、[[場内アナウンス]]等、どの面においても抜群だと言われている。
[[2003年]]5月場所に[[立行司]]に昇格し、33代[[式守伊之助]]を襲名。[[2006年]]1月場所に32代木村庄之助を襲名した。しかし、3月場所前に停年を迎えたため、庄之助としては1場所のみだったが、役員選挙権のある評議員資格があったため、1月場所後も庄之助として在位。2006年2月5日の[[日本大相撲トーナメント]]で庄之助としての最後の裁きを行った後、[[横綱]][[朝青龍明徳|朝青龍]]は、31代同様花束を贈って最後のねぎらいを行った。[[2006年]][[2月12日]]に停年退職。庄之助在位1場所は、行司停年制実施後現在での最短記録である。
[[立合い]]の「はっけよい!」の掛け声のあと、「のこった」を4回素早く繰り返すのが特徴。
 
31代庄之助同様、やはり事務能力に長けており([[木村庄之助 (28代)|28代庄之助]]は停年退職後、「[[番付]]は書かなかったが咸喬時代から[[根岸流 (書風)|相撲字]]においてはかなりの[[能筆]]だった。当時の行司の中では彼が一番だろう」と認めている)、[[場内アナウンス]]等、どの面においても抜群だと言われている。
 
== その他 ==
* 30代庄之助は同期生だが、入門は30代庄之助がわずかに早く、彼が「泉の親方」最後の弟子である。
幕下* 彼の三役時代に木村咸喬(しげたか)に改名。[[1973年]]1月に[[十両]]格に進。[[1988年]]1月[[幕内]]。[[1999年]][[時は三役]]格に昇進。これ欠員無かったが、立行司の[[式守伊之助 (29代)|29代式守伊之助]]が前場所で[[手首]][[骨折]]で長期休場が予想されたことと、以前から29代伊之助の体調が優れなかったことを考慮して[[木村庄之助 (29代)|29代木村庄之助]]が[[日本相撲協会]]に咸喬の昇格を希望したことから実現した。この1月場所から29代伊之助が停年となる[[2000年]]7月場所までは三役格行司が定員より1名多い4人となった。
* [[2000年]]9月場所8日目、[[前頭]]4枚目[[闘牙進|闘牙]](現[[千田川 (相撲)|千田川]])-同5枚目[[小城錦]](現[[中立 (相撲)|中立]])戦において、闘牙の足が出たと軍配を小城錦にあげ、土俵の土を確認したが実際は出ておらず、取り直しにしてしまった取組がある。[http://www.youtube.com/watch?v=eoOQ1-ehjis]
* [[2003年]]3月場所中に開かれた理事会で彼の立行司への昇格が決定したが、この3月場所を彼は体調不良で休場している。
* 伊之助時代の2003年11月場所、横綱[[武蔵丸光洋|武蔵丸]](現[[武蔵川]])の現役最後の一番を裁いた。(7日目 対前頭2枚目[[土佐ノ海敏生|土佐ノ海]](現[[立川 (相撲)|立川]])戦)
* 最終場所の[[2006年]]1月場所、仮に[[優勝決定戦 (相撲)|優勝決定戦]]になった場合は順番では彼が裁くはずだったが、「[[式守伊之助 (34代)|伊之助(34代)]]さんに裁いてもらいたい」と同じ場所に停年を迎える34代伊之助に決定戦での裁きを譲る考えを表明していたという。しかし実際は決定戦にはならなかった(本場所最後の一番は横綱朝青龍-[[大関]][[栃東大裕|栃東]](現[[玉ノ井]]))
* 当時の[[横綱]][[朝青龍明徳|朝青龍]]は、上述の[[日本大相撲トーナメント]]の取組終了後に31代庄之助の時と同様に花束を贈って長年の労をねぎらった。
 
==履歴==
*[[1955年]](昭和30年)[[5月]]  初土俵・木村郁也
*[[1972年]](昭和47年)[[3月]] 木村咸喬に改名。
*[[1973年]](昭和48年)[[1月]]  [[十両]]格に昇進。
*[[1988年]](昭和63年)[[1月]]  [[幕内]]格に昇進。
*[[1999年]](平成11年)[[1月]]  [[三役]]格に昇進。
*[[2003年]](平成15年)[[5月]]  [[立行司]]に昇格。33代[[式守伊之助]]襲名。
*[[2006年]](平成18年)[[1月]]  32代[[木村庄之助]]を襲名。
*2006年(平成18年)[[2月12日]]  [[定年退職|停年退職]]。
 
== 関連項目 ==
*[[行司]]
*[[木村庄之助]]
*[[式守伊之助]]
*[[根岸流 (書風)]]
 
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