「木村庄之助 (32代)」の版間の差分
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[[北海道]][[網走市]]出身。本名は澤田郁也(さわだ いくや)。
後に「泉の親方」と呼ばれた名[[行司]]
時間いっぱいでの立ち合い前は、'''「時間でぇすっ!手をついて」'''、ただし声は小さめ。立ち合い後は'''「はっきよーい!のこぉったっのこったっのこったのこった」'''と「のこった」を4回素早く繰り返すのが特徴であった。
幕下格時代に木村咸喬(しげたか)に改名。[[1973年]]1月に[[十両]]格に昇進。[[1988年]]1月[[幕内]]格。[[1999年]][[三役]]格に昇進。これは[[式守伊之助 (29代)|29代式守伊之助]]が前場所で[[手首]][[骨折]]で長期休場が予想されたことと、以前から29代伊之助の体調が優れなかったことを考慮して[[木村庄之助 (29代)|29代庄之助]]が[[日本相撲協会]]に咸喬の昇格を希望したことから実現した。この1月場所から29代伊之助が停年となる[[2000年]]7月場所までは三役格行司が定員より1名多い4人となった。▼
31代庄之助同様、やはり事務能力に長けており
▲31代庄之助同様、やはり事務能力に長けており([[木村庄之助 (28代)|28代庄之助]]は停年退職後、「[[番付]]は書かなかったが咸喬時代から[[根岸流 (書風)|相撲字]]においてはかなりの[[能筆]]だった。当時の行司の中では彼が一番だろう」と認めている)、[[場内アナウンス]]等、どの面においても抜群だと言われている。
== その他 ==
* 30代庄之助は同期生だが、入門は30代庄之助がわずかに早く、彼が「泉の親方」最後の弟子である。
▲
* [[2000年]]9月場所8日目、[[前頭]]4枚目[[闘牙進|闘牙]](現[[千田川 (相撲)|千田川]])-同5枚目[[小城錦]](現[[中立 (相撲)|中立]])戦において、闘牙の足が出たと軍配を小城錦にあげ、土俵の土を確認したが実際は出ておらず、取り直しにしてしまった取組がある。[http://www.youtube.com/watch?v=eoOQ1-ehjis]
* [[2003年]]3月場所中に開かれた理事会で彼の立行司
* 伊之助時代の2003年11月場所、横綱[[武蔵丸光洋|武蔵丸]](現[[武蔵川]])の現役最後の一番を裁いた。(7日目 対前頭2枚目[[土佐ノ海敏生|土佐ノ海]](現[[立川 (相撲)|立川]])戦)
* 最終場所の[[2006年]]1月場所、仮に[[優勝決定戦 (相撲)|優勝決定戦]]になった場合は順番では彼が裁くはずだったが、「[[式守伊之助 (34代)|伊之助(34代)]]さんに裁いてもらいたい」と同じ場所に停年を迎える34代伊之助に決定戦での裁きを譲る考えを表明していたという。しかし実際は決定戦にはならなかった
* 当時の[[横綱]][[朝青龍明徳|朝青龍]]は、上述の[[日本大相撲トーナメント]]の取組終了後に31代庄之助の時と同様に花束を贈って長年の労をねぎらった。
==履歴==
*[[1955年]]
*[[1972年]]
*[[1973年]]
*[[1988年]]
*[[1999年]]
*[[2003年]]
*[[2006年]]
*2006年
== 関連項目 ==
*[[行司]]
*[[木村庄之助]]
*[[式守伊之助]]
*[[根岸流 (書風)]]
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