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'''佐竹 義処'''(さたけ よしずみ、旧字体・正式表記: '''佐竹義處'''、[[寛永]]14年[[8月21日 (旧暦)|8月21日]]([[1637年]][[10月9日]]) - [[元禄]]16年[[6月23日 (旧暦)|6月23日]]([[1703年]][[8月5日]]))は、[[出羽国|出羽]][[久保田藩]]の第3代藩主。父は第2代藩主・[[佐竹義隆]](義処は次男)。母は[[佐竹義章]]の娘・[[光聚院]]。幼名は徳寿丸。通称は次郎。官位は従四位下侍従、左少将、右京大夫。
 
== 生涯 ==
[[正保]]3年([[1646年]])8月12日、将軍[[徳川家光]]に[[御目見]]する。[[承応]]3年([[1654年]])12月26日、従四位下右京大夫に叙任される。後に侍従、左少将に遷任される。[[寛文]]12年([[1672年]])2月9日、父・義隆の死去により家督を相続した。元禄14年([[1701年]])2月11日、弟・[[佐竹義長|義長]]に2万石、庶兄[[佐竹義寘|義寘]]の子[[佐竹義都|義都]]に1万石を分け与えた。元禄16年(1703年)6月23日、領内[[横手城]]において死去、享年65。法号は徳雲院不山宗見。墓所は[[秋田県]][[秋田市]]泉三嶽根の[[天徳寺]]。
 
寝食を忘れ、時には吐血しながらも藩政改革に取り組んだが、傾いた財政を建て直す前に死去した
 
正室は[[松平直政]]の娘・宝明院。側室は2人。長男[[佐竹義苗]]は早世したものの、次男[[相馬叙胤]]は[[相馬中村藩]]主、三男[[佐竹義格]]は久保田藩主になった。娘に[[藤堂高通]]養女、越前[[松平宣富]]室、[[黒田長軌]]室、越前[[松平宣維]]室らがいる。