「オットー4世 (神聖ローマ皇帝)」の版間の差分

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=== シュヴァーベン公フィリップとの闘争 ===
[[1197年]]にハインリヒ6世が没した後、ハインリヒ6世の弟[[シュヴァーベン大公|シュヴァーベン公]][[フィリップ (神聖ローマ皇帝)|フィリップ]]は大多数の諸侯から金銭と引き換えにドイツ王(ローマ王)即位の支持を取り付けた<ref name="Comyn, pg. 275">Comyn, 275頁</ref>。シュタウフェン家に敵対する諸侯はヴェルフ家の人間をドイツ王に擁立しようと試みたが、ハインリヒ獅子公の子の中で最年長の[[ハインリヒ5世 (ライン宮中伯)|ハインリヒ]]は[[十字軍]]に参加してドイツに不在であったため、弟のオットーがフィリップの対立王に選ばれた。反シュタウフェン家の立場をとる{{仮リンク|ケルン大司教<!-- [[:en:Electorate of Cologne]] とリンク -->|en|Archbishop of Cologne}}アドルフは、[[ライン川|ライン]]地方の諸侯に働きかけてオットーを擁立し<ref name="nishikawa250">西川「初期シュタウフェン朝」『ドイツ史 1 先史〜1648年』、250頁</ref>、[[1198年]]6月9日にヴェルフ家の支持者によってドイツ王に擁立された<ref name="Abulafia, pg. 378">Abulafia, 378頁</ref>。同年7月12日、オットーは[[アーヘン]]でケルン大司教アドルフより戴冠される<ref name="Abulafia, pg. 378"/>。聖職者のうちケルン大司教のみがドイツ王冠を戴冠できる権限を有しており、戴冠式はオットーの即位の正当性を証明する象徴として重要な意味を持っていた<ref name="Comyn, pg. 275"/>。しかし、帝権を示す標章はシュタウフェン家が所有していたため、戴冠式では模造品の標章で代用された。
 
オットーは養育者であるイングランド王リチャード1世の支援を受け、シュヴァーベン公フィリップは[[フランス君主一覧|フランス王]][[フィリップ2世 (フランス王)|フィリップ2世]]と同盟していたため、オットーの即位はイングランドとフランスの衝突を引き起こした<ref name="Comyn, pg. 278">Comyn, 278頁</ref>。