「マイソール王国」の版間の差分

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{{main|[[第3次マイソール戦争]]|{{仮リンク|第4次マイソール戦争|en|Fourth Anglo-Mysore War<!-- [[:ja:第四次マイソール戦争]] とリンク -->}}}}
 
[[1790年]]初頭イギリスは、[[1789年]][[12月]]にティプー・スルタンがケーララ地方を侵略したことを口実に宣戦し、マラーター同盟、ニザーム王国、トラヴァンコール王国はイギリスに加担した。一方、フランスは前年からの[[フランス革命]]により兵を出せず、オスマン帝国は[[ロシア]]との戦争によりイギリスと結んでおり、マイソール王国は不利を強いられた。さらに、[[1792年]][[2月5日]]から[[3月18日]]にかけて、マイソール王国はイギリス、マラーター同盟、ニザーム王国の軍にシュリーランガパッタナを包囲され、マイソール王国軍は一連の戦いで20000人の死者を出した。そして、同月[[3月19日|19日]]ティプー・スルタンは敗北を認め、{{仮リンク|シュリーランガパッタナ条約|en|Treaty of Seringapatam}}を結び、トラヴァンコール王国、コーチン王国などを除くケーララ地方全域をはじめとするマイール王国の約半分の領土と、多額の賠償金の支払いを約束し、その保証に二人の息子を差し出した。
 
この戦争によりマイソール王国は莫大な損害を被り、18世紀末にティプー・スルタンはフランスの[[ナポレオン1世|ナポレオン]]と結ぼうとしたが、イギリスはこれを条約違反とし、[[1799年]][[3月8日]]に第4次マイソール戦争が勃発した。マイソール王国は交戦したものの、イギリス軍に敗北し続け、同年[[4月5日]]にイギリスとニザーム王国の軍50,000により、首都シュリーランガパッタナを包囲された({{仮リンク|シュリーランガパッタナ攻囲戦 (1799年)|en|Siege of Seringapatam (1799)|label=シュリーランガパッタナ攻囲戦}})。ティプー・スルタン率いるマイソール王国軍30,000は、1ヵ月にわたり交戦したものの、[[5月4日]]の総攻撃でティプー・スルタンは戦死し、シュリーランガパッタナは陥落、占領された。(ティプー・スルタンとシュリーランガパッタナ攻防戦で運命を共にしたものは、軍人だけで6000人に及び、のちにティプー・スルタンとその主な武将の墓が、シュリーランガパッタナの宮殿に作られた)。