「アテルイ」の版間の差分

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アテルイは、史料で2回現れる。一つは、[[巣伏の戦い]]についての[[紀古佐美]]の詳細な報告で『[[続日本紀]]』にある。もう1つはアテルイの降伏に関する記述で、『[[日本紀略]]』にある。
 
史書は蝦夷の動向をごく簡略にしか記さないので、アテルイがいかなる人物か詳らかではない。[[802年]](延暦21年)の降伏時の記事で、『[[日本紀略]]』はアテルイを「大墓公」と呼ぶ。「大墓」は地名である可能性が高いが、場所がどこなのかは不明で、読みも定まらない。「公」は尊称であり、朝廷が過去にアテルイに与えた地位だと解する人もいるが、推測の域を出ない。確かなのは、彼が蝦夷の軍事指導者であったという事だけである
 
征東大使の[[藤原小黒麻呂]]は、[[781年]]([[天応 (日本)|天応]]元年)[[5月24日 (旧暦)|5月24日]]の奏状で、一をもって千にあたる賊中の首として「伊佐西古」「諸絞」「八十島」「乙代」を挙げている。しかしここにアテルイの名はない。