「ドミティアヌス」の版間の差分

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彼は[[記録抹殺刑]]に処せられており、これにより後世にはタキトゥスやスエトニウスの否定的評価だけが残っている。
 
当時いまだネロ治世でのローマ大火と内乱のあとから完全に復興していなかったローマ市内に、芸術愛好家としてのおのれの好みを反映させ、人口の回復を図り、公共事業を多く起こした。ドミティアヌスの建築計画には[[ドミティアヌス競技場(現在のナボーナ広]]、{{仮リンク|ドミティアヌス劇|en|Odeon of Domitian}}[[パラティーノ|パラティヌス]]の宮殿、神殿、数多くの記念碑や彫像が含まれる。
 
[[85年]]には終身[[ケンソル]](監察官。財務官とも)の座についた。この職はローマ市民の模範たるべき職であり、ドミティアヌスにはふさわしくないとの評があった。81年に帝妃ドミティアが俳優パリスと浮気したという噂を聞き、怒ったドミティアヌスはパリスを処刑し、帝妃を流刑にした。姪(兄ティトゥスの娘)である[[ユリア・フラウィア]]の夫の死後、未亡人となったユリアに、彼女が肉親であったにもかかわらず、これに恋慕し、妊娠させるに至った。ユリア・フラウィアが流産のため死亡した後、流刑地から帝妃ドミティアを呼び戻したが、その後の結婚生活は形ばかりのものであった。
 
ドミティアヌスは芸術と競技に情熱を注ぎ、父ウェスパシアヌスが建設を始め、兄ティトゥスが奉献したフラウィアヌム([[コロッセオ|フラウィウス競技場、現[[コロッセオ]]を[[86年]]に完成させるとともに、[[ドミティアヌス競技場]]を新たに造った。また、[[古代オリンピック|オリンピア]]競技を模し、ここで4年ごとに陸上競技や[[戦車競走]]などからなる競技大会を催した。また[[剣闘士]]競技を愛好し、女性剣闘士や矮人剣闘士といった改革行った。
 
ローマ人としての教育を受けたものの、軍人としては才能に恵まれなかった。[[ダキア戦争|ダキア遠征]]や[[ブリタニア]]遠征を試みるが、これらの遠征は国内宣伝を主としたものであり、実効を伴わなかった。ダキア人相手の戦争では度々苦戦を強いられ、最終的にはダキアと講和条約を結んでいる。この講和条約は当時ダキア側に捕らえられていたローマ兵一人に対していくらかの身代金を払うと言った条項が加えられており、これを屈辱的だと感じたローマ市民には大変不評な講和条約であった。