「本多猪四郎」の版間の差分

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特に最初に入営した[[歩兵第1連隊]]では将校が[[二・二六事件]]を起こしたので、事件後の部隊が[[満洲]]に送られてしまい、通常2年で済む現役が長引いた。復帰後は軍に再召集され、[[日中戦争]]に従軍。終戦は中国で迎えた。この間、本多の両親や兄弟はすべて他界していた。1946年、中国から引き上げてきた本多は汽車で帰郷中に[[原子爆弾|原爆]]で壊滅した[[広島市|広島]]を目の当たりにし、強い衝撃を受けた。
 
8年間も軍にいたため、本来は山本門下の3人のうち最も先輩だったにもかかわらず黒澤([[1943年]]『[[姿三四郎 (映画)|姿三四郎]]』で初監督)、谷口([[1947年]]『[[銀嶺の果て]]』)に対して、[[1949年]]に短編ドキュメンタリーの『[[日本産業地理大系第一篇 国立公園伊勢志摩]]』で監督デビュー<ref>[http://kinema-shashinkan.jp/special_new/-/info/49?PAGE=7&&PHPSESSID=7tffv9k9qm85e2nva3gqcb5b17 本多猪四郎の映画世界 ゴジラ・SF特撮から文藝映画まで真摯な映画づくりで一時代を築いた名工 映画監督・本多猪四郎の誕生]</ref>。本作は日本で初めて、本格的な水中撮影が行われた<ref>[http://www.yidff.jp/2009/cat105/09c107.html 山形国際ドキュメンタリー映画祭2009カタログ ゴジラを撮った男・本多猪四郎特集]</ref>。[[1951年]]、本多が40歳の時にようやく監督昇進となった。初監督作品は『[[青い真珠]]』で劇映画を初監督する
 
『[[太平洋の鷲]]』以降[[円谷英二]]とのコンビで多くの特撮映画を監督した。[[1954年]]の『[[ゴジラ (1954年の映画)|ゴジラ]]』は全米で大ヒットを記録したため、一躍世界に名を知られる映画監督となる。なお、『ゴジラ』では真夏の海上ロケを敢行したが、巡視船の上で上半身裸となって撮影に挑んだため、[[日焼け]]しすぎて背中に[[水疱|水ぶくれ]]ができてしまったという。
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!style="white-space: nowrap;"|上映時間ほか
!style="white-space: nowrap;"|ポスター
|-
|style="white-space: nowrap;"|[[1949年]]
|[[日本産業地理大系第一篇 国立公園伊勢志摩]]
| [[東宝教育映画]]
|rowspan=24| [[本多猪四郎]]
| [[モノクロ]]<br/>[[スタンダード]]<br/>20分<br/>短編ドキュメンタリー
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|-
|style="white-space: nowrap;"|[[1950年]]
|[[砂に咲く花]]
| [[東宝教育映画]]
| [[モノクロ]]<br/>[[スタンダード]]<br/>不明<br/>短編文化映画
|
|-
|style="white-space: nowrap;"|[[1951年]]
|[[青い真珠]]
| [[東宝]]
|rowspan=2| [[本多猪四郎]]
| [[モノクロ]]<br/>[[スタンダード]]<br/>99分
|