「聚楽第」の版間の差分

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[[Image:Go-yozei Tenno Juraku-dai Gyoko-zu.jpg|thumb|left|350px|『後陽成天皇聚楽第行幸図』<small>([[堺市博物館]]収蔵)</small>]]
 
聚楽第は、「聚楽亭」「聚楽城」「聚楽館」などとも記される。当時天正から慶長にかけての文献『駒井日記』、フロイス『日本史』などには単に「聚楽」、まれに「聚楽城」と記すが、される。江戸までは「聚楽と記すのが一般的だったが、後には「聚楽城」のほか「聚楽亭」の表記く見られる。「聚楽第」の呼称が定着したのは明治以降である。読みに関しては「じゅらくてい」「じゅらくだい」の両説があるが、正保期の版本『甫庵太閤記』には「聚楽第」の表記に「じゅらくてい」のふりがなが振られている。<ref>明治以降の文献には「じゅらくだい」のふりがなが振られたものもある。</ref>
 
聚楽第は、建造中は「内野御構」<small>(うちの おかまい、-の おんかまえ)</small>と呼ばれていた。<ref>初見は『[[多聞院日記]]』天正14年2月27日の条にある「去廿一日ヨリ內野御構普請」。「聚楽」の名の初出は天正15年正月27日で、この日[[前田玄以]]から文書によって通達されている。『時慶記』同日条に「従法印有折紙、内野関白殿新殿号聚楽、然は折紙に曰、聚楽首尾次第に行幸可被申候」(法印=前田玄以=より折紙あり、内野関白新殿を聚楽と号す。しからば折紙に曰く、聚楽首尾次第に行幸を申せらるべく候と)とある。</ref>
 
「聚楽」という名の由来については、『聚楽行幸記』に「長生不老の樂<small>(うたまい)</small>を聚<small>(あつ)</small>むるものなり」とある。またフロイスの『日本史』には「彼(秀吉)はこの城を聚楽(juraku)と命名した。それは彼らの言葉で悦楽と歓喜の集合を意味する」(松田毅・川崎桃太訳)とある。これら以外に「聚楽」の出典が見いだせないことから、秀吉の造語と考えられている。<ref>平安京の「聚楽坊」の跡に建てたからという説があるが、平安京条坊に聚楽坊という坊があったことは確認できない。</ref>。<br clear=all>
 
== 現況 ==
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聚楽第の破却に際し建物の多くは[[伏見城]]内へ移築されたとされ、また[[西本願寺]]の飛雲閣、[[妙覚寺 (京都市)|妙覚寺]]の大門、[[妙心寺]]播桃院玄関、[[山口県]][[萩市]][[常念寺(萩市)|常念寺]]の山門など、聚楽第から移築されたという伝承がある建造物もあるが、いずれも伝承の域を出ず今のところ明確建築史研究者に聚楽第の遺構と認められている建造物は[[大徳寺]]の唐門だけである<ref>2003年の修理の際に飾り金物から「天正」の銘が発見された</ref>
 
 
また遺構と伝えられているものに、「梅雨の井」([[松屋町通]][[下長者町通|下長者町]]上ル東入ル)があるが、現在の研究では本丸東堀上に当たるとされ、聚楽第の遺構とするのはやや無理があると考えられている。なお聚楽第東方の堀川左岸には古様を示す石垣が断続的に続き、桜井成広はこれを聚楽第築城に関連する遺構としている。事実とすれば現存唯一の地上遺構となる。
 
 
また松林寺([[智恵光院通]][[出水通|出水]]下ル)一帯の窪地は周辺より3mほど低くなっており、古くから聚楽第の堀跡とされてきた。1997年(平成9年)の発掘調査により外堀の一部であったと推定されている。
なお聚楽第内郭跡南方の松林寺([[智恵光院通]][[出水通|出水]]下ル)の墓地一帯の窪地は周辺より3mほど低くなっているため、幕末に名倉希言により「聚楽第の外堀跡」との説が唱えられ、この説を引き継いで[[西田直二郎]]も聚楽第跡周辺の窪地を外濠跡としている(『京都府史蹟調査会報告』大正8年)。さらに同様の考えが京都府・市の埋蔵文化財関係者から提起されている<ref>加藤繁生はこの窪地について聚楽土の採掘跡の可能性を指摘している。</ref>(参考文献参照)。
 
京都市出水老人デイサービスセンターの北向かい(智恵光院通出水下ル)には[[加藤清正]]寄贈と伝えられている庭石が残る。
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1997年(平成9年)には、一条通松屋町西入ル北側のマンション建築にともない、東西に延びる底石列が二列検出された。この石列は京都図屏風などから北之丸北堀南側の石垣のものと考えられる。
 
2012年(平成24年)には、京都府警西陣待機宿舎(智恵光通上長者町下ル東側)敷地から、東西約32mにわたる本丸南堀北側の石垣の基部が、京都府埋蔵文化財調査センターの発掘により検出された。
 
 
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*「聚楽第図屏風」 六曲一隻(一番左の一曲は失われている) 桃山時代 [[三井記念美術館]]所蔵。 
*「聚楽第図」大阪城天守閣所蔵
*「御所参内・聚楽第行幸図屏風」 六曲一双 桃山時代 個人蔵([[上越市立総合博物館]]寄託)。狩野博幸発見になるもので、狩野は桃山期のものと考える。画像・解説は狩野博幸著『秀吉の御所参内・聚楽第行幸図屏風』で見られる。
*「[http://www5f.biglobe.ne.jp/sans-culotte/topics439.html 洛中洛外図屏風]」 六曲一双 江戸時代前期 尼崎市教育委員会所蔵。<ref>景観年代は寛永初期ごろだが、制作年代は17世紀後半に入ると推測される。聚楽第・聚楽第行幸と共に、聚楽第と同時に存在しない二条城と伏見城が描かれており、寛永初期の景観に秀吉時代の景観をオーバーラップさせたものと見做せる。</ref>
*「[[:ファイル:Go-yozei_Tenno_Juraku-dai_Gyoko-zu.jpg|聚楽第行幸図屏風]]」 二曲一双 寛永初期 [[堺市博物館]]所蔵
*「洛中洛外図」[[南蛮文化館]]蔵。 廃城後の聚楽の姿を描く。石垣と堀に囲われた本丸跡では農夫が畑を耕し、北の丸跡では能興行が行われている。
*『探幽縮図』「聚楽第図屏風」模写 東京藝術大学資料館所蔵。画像は狩野博幸著『秀吉の御所参内・聚楽第行幸図屏風』で見られる。
*「[[:File:Jurakudai1.jpg|豊公築所聚楽城之図]]」 名倉希言筆 豊國神社所蔵 。聚楽第南西方面には外濠も描く。
このほか、秀次一族の供養塔(「悪逆塚」)がある[[瑞泉寺]]には「瑞泉寺縁起」があり聚楽第の姿も描かれているが、江戸後期の作と考えられている。
 
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== 参考文献 ==
* 桜井成広『豊臣秀吉の居城 聚楽第/伏見城編』(日本城郭資料館出版会、1971年)。詳細な聚楽第復元図を掲載する。
* 二木謙一『秀吉の接待』(学習研究社2008)
* 村川浩平「天正十六年毛利輝元上洛の意義」『史学論集』26号、1996年(『日本近世武家政権論』、2000年)
* 中西宏次『聚楽第 梅雨の井物語』(阿吽社、1999年) ISBN 4900590622
* 京都市歴史資料館 編『聚楽第と京都』(2000年)。京都市埋蔵文化財研究所調査員(当時)馬瀬智光作製の「聚楽第復元図」を掲載する。馬瀬は外郭を堀とする。
* 日本史研究会 編『豊臣秀吉と京都 <small>聚楽第・御土居と伏見城</small>』(文理閣、2001年) ISBN 4892593915。京都府埋蔵文化財調査研究センター調査員(当時)森島康雄作製の「聚楽第跡考定図」を所収する。森島は外郭を堀とする。
* [[狩野博幸]]『秀吉の御所参内・聚楽第行幸図屏風』(青幻社、2010年) ISBN 978-4-86152-269-7
* 松本利治『京都市町名変遷史』(紀伊国屋書店1989)- 町名の変遷と由来を考察し、貴重な伝聞も紹介されている。
* 加藤繁生「聚楽第の石垣」『史迹と美術』(史迹美術同攷会)837・840・843号所収、2013-4年。残存地名、京都図屏風、聚楽古城図、絵画、発掘結果などを手掛かりに『聚楽第内外郭推定図』を提示している。加藤は「外郭は築垣=高塀」と主張する。
* 『聚美vol.11 特集 豊臣の風景と洛中洛外図』(聚美社、2014年) ISBN 978-4-88546-278-8