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Category: 暗殺された政治家を一旦除去(死因に諸説あるため)
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[[File:He Peirong2.jpg|thumb|何佩&#x7462;別影<br/>''Who's Who in China 3rd ed.''(1925)|200px]]
=== 北京政府時代の活動 ===
[[1906年]]([[光緒]]34年)、日本に留学して[[陸軍士官学校 (日本)|陸軍士官学校]]第4期歩兵科を卒業した。帰国後は、[[保定陸軍軍官学校]]教官などをつとめている。[[中華民国]]成立後の[[1912年]]([[民国紀元|民国]]元年)、陸軍第2師参謀長となる。[[北京政府]]では[[安徽派]]に属した。[[1917年]](民国6年)2月、[[湖北省 (中華民国)|湖北省]]政務庁庁長となり、翌年8月、財政庁庁長も兼任した。

[[1919年]](民国8年)3月、署理湖北省省長となり、11月、正式に省長に就任している。翌年8月、[[安直戦争]]で安徽派が敗北したため、省長から罷免された。まもなく湖北督軍公署参議兼湖北鉱務局督弁に異動し、[[孫伝芳]]の最高顧問となっている<ref name=Xu>徐主編(2007)、670頁。</ref><ref name=Zheng>鄭。</ref><ref name=Toa>東亜問題調査会編(1941)、34頁。</ref><ref name=Ozaki>尾崎監修(1940)、79頁。</ref>。
 
=== 親日政権での活動 ===