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== 生涯 ==
[[皇太子483年]]だっ閏4月、[[孝文帝]]の次男として生まれた。[[496年]]12月に長兄の[[元恂]]は、父・が[[孝文帝]]が推し進める漢化政策に反対し、反乱を企てようとしたため、皇太子の地]]位を廃された挙句に父帝によって誅殺された、あるいは自殺した。そのためと、翌[[497年]]1月に元恪が代わりに皇太子に立てられ、た。[[499年]]に4月、孝文帝のが死によって去すると、17歳で即位した。当初は、咸陽王[[宗室元禧]]で叔父の咸陽・任城王[[元澄]]・北海王[[元キ|元禧詳]](・広陽王[[献文帝元嘉 (北魏)|元嘉]]の次子で孝文帝の次弟)、・[[尚書令]]の[[王粛 (南北朝)|王粛]]・吏部尚書[[宋弁]]ら6人の補佐大臣の輔弼を受けたという。
在世中、しばしば[[梁 (南朝)|梁]]を攻撃して[[四川省|四川]]方面に領土を拡大し、北方では[[柔然]]に大打撃を与えた。だが、熱心な[[仏教]]信者である故に、次第に仏教信仰に溺れた。[[501年]](景明二年)、国政を側近や[[外戚]]の[[高肇]]に委ねて親政を始めた。やこれに反発する叔父の咸陽王元禧がて宗室反乱を遠ざけ計画したため、処断したという。[[508年]]に、異母弟の京兆王[[元愉]]が冀州で反乱を起こすと、これを鎮圧し、高肇の進言で、皇族の長老である叔父の元禧とその末弟の彭城王・[[元キョウ|元勰]]、また異母弟の京兆王・[[元愉]]ら多くの皇族諸王をも誅殺した。
在世中、しばしば[[梁 (南朝)|梁]]を攻撃して[[四川省|四川]]方面に領土を拡大し、北方では[[柔然]]に大打撃を与えた。だが、熱心な[[仏教]]信者である故に、次第に仏教信仰に溺れた。
父と同じく33歳の若さで崩御し、[[洛陽]]郊外に葬られた。 ▼
▲父と同じく[[515年]]2月、33歳の若さで崩御し、[[洛陽]]郊外に葬られた。
== 陵墓 ==
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